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後に大きな評価を得る(1/5) 〜晩年〜受け継がれる志

昭和41年(1966)10月18日の午後5時50分−− 晴れ渡った東京羽田の空港(まだ成田空港は作られていなかった。)に、北欧スウェーデンのコペンハーゲンから銀翼をきらめかせながら日航機が到着した。その飛行機のタラップから降り立った多くの乗客の中に、ベレー帽にレインコートという軽装の背の高い白髪の一人の外国紳士がいた。

スウェーデンの都ストックホルムにある王立カロリンスカ研究所の名誉教授で、医学博士のフォルケ・ヘンシェン氏(84歳)である。元ノーベル賞選考委員で世界的にも有名な学者であったので、空港にはもう多くの日本の学者や新聞記者が待ちかまえていた。それらの人たちと、にこやかに握手を交わした博士は、ロビーにくつろぐと、来日の目的などをいろいろと質問する新聞記者に答えたことは、第一につぎのような言葉であった。

「世界で、はじめて人工ガンを作った日本のドクター・ヤマギワにノーベル賞を受賞させなかったのは、いまでも、ノーベル賞選考委員会が残念に思っていることです。私はこれから東京で開かれる第9回世界ガン学会でドクター・ヤマギワの功績について、くわしくお話したいと思います……。」 ドクター・ヤマギワとは、あの山本勝三郎少年−−後の山極勝三郎博士のことである。

翌日、この老博士の来日について「産経新聞」(昭和41年10月20日付)は、『−ノーベル賞を授与したかった−“ヤマギワ 許してください”−スウェーデンの老学者、故山極博士選考もれの真相を語る− という大きな見出しを付けて、 「世界のガン研究史上における山極博士の偉大な業績は、誰ひとりとして異存もなく、世界的に認められている。それに対して、半世紀前とはいえ、ノーベル賞が授けられなかったことは、まことに残念で、日本のガン科学者にも申しわけない。わたしは当時、若手の教授であったので、山極博士をじゅうぶんに推せんすることができなかった……」と張りのある声で語られたヘンシェン博士の言葉を大きく、取り上げて報じている。

それから3日後の23日から29日までの一週間、第9回世界ガン学会(9th international Congress)が東京の日本武道館で開かれた。世界67カ国から約2000人、地元の日本から約2000人、計約4000人におよぶ研究者の大学会となったが、この会の最初に、世界対ガン連合会会長のアレキサンダー・ハドウ博士(イギリス)は「世界のガン研究は、日本人の山極博士によって開発されたのです。」と述べ、参会者に深い感動を与えた。そして24日夜、赤坂メモリアル・ホールで山極顕彰会が開かれ、内外の多くの学者によって山極博士の功績がたたえられたのであった。

写真 写真 勲一等瑞宝章の勲記と勲章
勝三郎の生前の多大な功績に対し、没後に授与されたもの。 勲章は肩から下げる大綬と、これに吊るす正章・胸につける副章・略綬からなる。

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