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井上善次郎(1862〜1941)

山極先生
井上善次郎肖像
〔千葉大学附属図書館所蔵〕

文久2年(1862)、香川県高松の田中利三郎の二男として生まれる。幼くして両親を亡くしたため叔父井上甚太郎に養育され井上姓となった。10歳の時に養父の勧めで大阪の儒学者藤沢南岳の塾に入り漢学を学ぶが、16歳の時に漢学に見切りをつけて帰国。厳格な養父に厳しく叱責されて翌朝東京へ向かいドイツ語を学び、東大の予備門を経て医科大学へ進んだ。山極勝三郎とは同級で以後生涯を通じて親友としての交友が続いた。在学中に養父の長女と結婚。自宅で杜氏を招いて味噌を製造販売する珍しい医学生であった。明治22年(1889)東京帝国大学医学部を卒業。内科の道に進み、同年12月内科助手に就任。月給20円を給される。

明治23年(1890)、肺ジストマ研究のため山極勝三郎とともに岡山県出張を命じられ、帰京後に勝三郎と共著でジストマ病についての論文を発表している。

明治24年、第三高等中学校(現岡山大学)教授に就任。明治31年、請われて千葉第一高等学校(現千葉大学)教授となる。翌年、東大病理学教室の三浦教授の勧めによりジストマ研究の論文を提出して医学博士の学位を授与された。外国留学前の学位取得は井上が最初である。

明治34年(1901)から2年間ドイツへ留学。エンランゲン大学、ヴュルツブルグ大学などで学ぶ。帰国後は、各地の病院長に招聘されたが千葉に戻り、明治38年(1905)わが国初の内科大系書『井上内科新書』全四巻を刊行。この本は、昭和10年(1935)の第16版まで増補改訂され、当時の医学関係者に必携の書として愛用された。また、明治41年(1908)にはより簡便な内容の『井上小内科書』を刊行。本書も昭和61年(1986)の第30版まで増補改訂され、医学書としては類をみない超ロングセラーとなった。井上の著書にはほかに『内科診断学』があり、没後間もなく随筆集『杏林の落葉』、伝記『井上善次郎先生伝』などが刊行された。

また、森下南陽堂(現森下仁丹株式会社)の創業者森下博の発案した総合保健薬「仁丹」の開発に三輪徳寛とともに協力した。明治38年に発売された「仁丹」は2年後には輸出が始まり、現在でも世界中で愛用されている。

明治44年、千葉県医師会名誉会長に就任。大正5年(1916)、千葉医学専門学校(現千葉大学)を54歳で退官し、千葉市内に井上診療所を開設。井上診療所は民家を借りた粗末な建物だったが、関東大震災を教訓に空地や貯水池を設けて防災面に留意し、病室等級の廃止、消毒の徹底、医薬分業など、井上が長年考えていた患者本位の病院経営が試みられた。

昭和5年(1930)、持病が悪化したこともあり診療所を弟子の花岡和夫(諏訪市出身)に譲り、新町の自邸で新たに博愛堂医院を開業。晩年まで地域医療に携わりつづけた。昭和16年(1941)死去。享年79。

井上診療所は現在井上記念病院と改称し、健康管理センターや専門外来を備えた千葉県有数の総合病院として発展し、井上の医道を受け継いで地域医療に積極的に貢献している。

写真 井上善次郎と『井上内科新書』
『井上記念病院90年史』(井上記念病院 2006)より。