赤松小三郎は洋学者、議会政治の提唱者として幕末の短い期間にめざましい活躍をしたことが知られています。
上田藩士芦田勘兵衛の次男として天保2年(1831)に生まれ、安政元年(1854)に上田藩士の赤松弘の家督を継ぐために養子になりました。
通称は清次郎からのちに小三郎と改めました。諱(いみな)は友裕または惟敬でした。
嘉永元年(1848)数え年18歳の時に江戸へ出て幕臣の内田弥太郎の門に入り、数学・測量・天文・暦学・蘭学等を学び、嘉永5年に幕臣の下曽祢信敦にも入門、蘭学・西洋砲術などの教えを受けました。
安政2年(1855)勝海舟に従って長崎へ赴き、幕府の開設した長崎の海軍伝習所で伝習所が廃止されるまで3年余にわたって、数学・測量・兵学・航海術等を、学びました。その間に『矢ごろのかね 小銃彀率』を翻訳、出版しました。
万延元年(1860)小三郎は上田へ帰り、赤松家の家督を継ぎ、上田藩で藩兵の洋式調練などにあたりました。また江戸勤務のおりに横浜の英国士官のもとへ通い、いち早く英語を習得し、慶応元年(1865)に翻訳・刊行した『英国歩兵練法』によって世の中に小三郎の名が知られることになりました。
小三郎は上田藩での活動に限界を感じて、慶応2年に京都へ出て私塾を開くとともに、薩摩藩の京都屋敷などで英国式新兵法などを教え、慶応3年5月には『重訂英国歩兵練法』を薩摩藩から出版しました。
また、小三郎は幕末非常の時局に際して、憂国の情やみがたく慶応2年と同3年に幕政改革、国政改革の建白書をそれぞれ提出しました。特に慶応3年5月、徳川幕府と前政事総裁職松平春嶽、薩摩藩の島津久光に出した建白書では議会政治を提唱しました。この建白と前後して、「天幕御合体、諸藩一和」のために奔走しました。
慶応2年(1866)11月、幕府は小三郎を開成所(洋学教授の学校、東京大学の前身)の教官として出仕させるべく、上田藩に打診してきましたが、上田藩では兵制一新等のため必要な人物だとの理由で断りました。帰藩の厳命に折れてひとまず帰郷を決めた小三郎はその直前の、慶応3年9月3日、倒幕路線を強めていた薩摩藩士(桐野利秋ら)により暗殺されました。小三郎、数え年37歳のときでした。
写真の裏に「慶応三年丁卯四月写真、於京師赤松小三郎齢三十七歳」と、小三郎自身の署名のある貴重な写真です。「京師」は京都のことです。印画紙には鶏卵紙を使い、複写を重ねて出回っている写真の原本になります。
小三郎は上田で洋服を着た最初の人物とみられ、ちょんまげを切ったのも上田藩で初めてだったと伝えられています。小三郎が持っている刀は現存しています。
小三郎が肖像写真で手している刀です。鍔(つば)がサーベルのような特殊な形をしているだけでなく鋒(きっさき)(先端部)が両刃になっており、日本刀としてはかなり特殊で、和洋折衷的な刀です。小三郎は上田藩兵の洋式調練のおり、これを指揮刀として使ったと伝えられています。
茎(なかご)の両面には「殺活応機」「赤松小三郎所佩」と銘が刻まれています。
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