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なぜ宛先は信玄ではないのか

例えば室賀信俊の起請文は、山県三郎兵衛宛ですが仁科盛政は、跡部大炊助あとべおおいのすけになっています。また、多くの起請文の宛所になっている吉田左近助には、やはり跡部大炊助宛に起請文を出させています。

また、室賀信俊に対して弟の室賀経秀、海野幸貞に対して被官衆の桑原康盛、岩下(海野)下野守に対してやはり被官衆の岩下幸実には、一族で連署した起請文を提出させています。信玄は、提出者をそれぞれの一族を統率する武将と、その武将の家臣に連署させた起請文を別々に提出させたり、提出先も複数の重臣を宛所にしてさらにその重臣同志でも起請文を提出させています。信玄に対する畏怖心から、起請文に書かれた内容を厳守するように、お互いに監視の目を向けるように仕向けていたわけです。

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参考資料:信濃史料、信玄武将の起請文、上田市誌「歴史編・文化財編」から引用しています。