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なぜ、起請文を奉納したのか

信玄は他国へ進出して、各地の領主・武将等を戦いで破った後、自らの家臣として支配下におき、新たな領地はその家臣を統治者に据えることも多かったため、下克上の世では、いつ寝返られても不思議はない状態でした。後に信玄の信頼が厚くなっている真田幸隆も、海野平の合戦では、武田と対峙した海野氏側につき、破れて上州に逃れた後、本領復帰のためにあえて天文15年(1546)頃に仇敵信玄の配下に入ったとも考えられています。また、室賀氏もかつては村上義清の配下であったものの義清の本拠、葛尾城の落城後に、信玄の配下に入っています。

信玄自身も、隣国の今川氏と図って父である信虎を甲斐の国から追放したこともあるのですから、各地の武将が、武田家の圧倒的な武力に対する畏怖心や、領地の宛行い、安堵によって信玄に服従しているとはいっても、警戒心を解いていることはなかったでしょう。

実際に、上田原の合戦で信玄が破れたことから勢いづいた小笠原長時・村上義清・藤沢頼親等は、諏訪下社へ攻め入って放火し、「諏訪の西方衆の矢島・花岡も武田氏に叛き、仁科盛政 も小笠原氏に組して武田氏に反旗を翻し」ました(『信玄武将の起請文』)。やがて、信玄と嫡子である義信との間で今川氏の領地である駿河への進出を巡っていさかいが起きます。この事件は、信玄につくか、義信につくかで家臣団の分裂にまでつながり、信玄は飯富虎昌おぶとらまさの処刑と義信の幽閉(後に自刃)によって結束を固めるという行動に出ました。

このため、信玄は家臣たちの離反・分裂・謀反を大変恐れ、甲斐の国の武将ばかりでなく、敵方からの調略が心配される新たな領地となった信濃・上野の武士諸将にも起請文を提出させることにしたわけです。

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人物解説

仁科盛政起請文へ移動

信州安曇郡北部に古代から大きな勢力を持っていた豪族で天文19年(1550)に武田氏に降る。

参考資料:信濃史料、信玄武将の起請文、上田市誌「歴史編・文化財編」から引用しています。