昌幸・幸村高野山配流
 周知のように、この関ヶ原の合戦により、天下の政権は完全に徳川家康の手に帰した。
 そして昌幸の領地小県は、徳川方についた信之に与えられた。一方、昌幸・幸村父子は信之の必死の助命嘆願により、死罪はまぬがれ、高野山へ追放されることになった。真田父子は、高野山麓の九度山くどやまに落ち着く。
 流罪人とはいっても、上田から随行した何人もの家臣がおり、行動も比較的自由だったようである。しかし、家来ともども、ただいたずらに日を送っていたわけで、国元からの仕送りが頼りのその生活は、当然のことながら苦しいものであった。昌幸から国元へあてた金子きんす無心の手紙が何通も残されている。
 昌幸は慶長16年(1611)この九度山において65才で病没する。智勇兼ねそなえた名将であり、真田の名を上げた昌幸であったが、その晩年はさびしいものであった。
高野山蓮華定院 / 高野山奥の院 / 九度山真田庵 / 慶長8年(1603)3月15日 信綱寺宛真田昌幸書状 / 年次不詳正月5日 真田昌幸書状

昌幸、配流地で死去