真田信昌(信尹、昌春)
 信昌は真田幸隆の四男、すなわち昌幸の弟である。昌幸とともに若年より武田信玄に仕え、武田一族の加津野家を継ぎ、加津野市右衛門、ついで同隠岐守と称している。後、真田姓に復す。
 天正10年(1582)の武田氏滅亡後は、いち早く徳川家康に仕えた。同年9月、昌幸が家康に属したのは、信昌のあっせんによる。この後も、昌幸と徳川との仲介役をつとめている。
 一時、会津の蒲生氏郷がもううじさとに仕え、後徳川家へ帰参、慶長19年(1614)甲州巨摩郡の内で3,000石を与えられ、その後1,000石加増、合計4,000石の旗本となった。(寛政重修諸家譜による)
 大坂の役のおりには、家康の命により、甥にあたる幸村の陣を訪れ、徳川に属するよう説得を試みている。もちろん幸村はこれには応じなかったが。
 寛永9年(1632)没。85才とも86才であったともいう。墓は知行地であった山梨県北巨摩郡長坂町長坂上条の龍岸寺にある。
 なお、信昌の子孫については、本家筋は3代目で継嗣がなく断絶となったが、分家筋の2家(500石と900石)は、旗本として明治維新まで続いた。
黄八幡の旗 / 慶長17年(1612)閏10月24日 真田信之宛同信昌書状

真田信昌屋敷跡
龍岸寺
龍岸寺蔵真田氏遺品