民衆を描く刀画 - 1882年
山本鼎は明治15年(1882)10月14日、愛知県岡崎上肴町(現岡崎市伝馬通り一丁目)に生まれた。父一郎、母タケの一人息子。鼎が生まれると間もなく、漢方医の一郎は医師資格取得に必要な西洋医学を学ぶため、森鴎外の父・静男が経営する医院の書生となった。そのため鼎も母と共に上京、浅草区山谷町に移住した。
小学校四年を卒業した鼎は、浜松町の木版工房で桜井虎吉の指導を受けながら、版画職人として自立する道を歩み始める。母も家計を助けるため女中奉公に出るなど家庭は貧しかったという。鼎十六歳のとき、父が長野県小県郡神川村大屋(現上田市)に医院を開業、彼にとって上田は第二の故郷となった。
刀画「漁夫」を発表 - 1901年
木版工房で9年間修業した鼎は、明治34年、東京美術学校西洋画科選科予科に入学した。版画職人から美術家への転身である。
在学中(1904年)、与謝野鉄幹主宰の雑誌『明星』に刀画「漁夫」を発表、新進気鋭の版画家として注目された。それまでの版画は、絵を書く者、版を彫る者、刷る者の三者合作であったが、鼎はそれを一人で行う個性的な創作版画を試みたのである。彫刻刀は筆、板はカンバス、版画は刀で描いた絵画、つまり刀画だというのが彼の主張であった。
大漁判天をきた漁夫が海をみている。なにげなしに手にしたキセルにも、浜辺の人の生活はしみとおっていたし、思いきった暗部をもって、それはかつて日本の版画にない新しい時代をよびかけていた。 (小野忠重『版画』岩波新書)
このように高く評価されている「漁夫」は、わが国の近代版画の夜明けを告げる作品となり、鼎の才能は開花したのであった。
美校時代の生活
苦学しながらの東京美術学校時代の生活は、神川村の両親に宛てた次のような手紙でほぼ推測できよう。
同じ手紙には「又日記を御通報いたすべく候」とあり、3月8日から16日までの日記を書き送っている。卒業制作の「自画像」が思うように完成しないこと、アルバイトの植物の木版を激しく催促され終日仕事に終われていること、友人の石井柏亭の弟妹・鶴三、みつが遊びに来たこと、夜は「蕪村全集」を読み「草霞み水に声なき日くれ哉」等を良い句と思ったなどがその内容である。
「又日記を御通報」とあるから、このような詳細な報告はたびたびなされていたと思われるが、24歳の息子としては珍しいことではなかろうか。
手紙の中の石井みつ(鼎は後に「光子」としているので以下、そのように記す)は、鼎より10歳とし下の女性。光子の兄・柏亭と鼎は同年であるから、彼女は妹のような感情で鼎と無邪気に接していたのであろう。「シリトリ句、順ぐり話に、画の合作、腕押、座角力、出放題な遊びをして」と鼎も手紙に書いている。鼎24歳、光子14歳の頃の事である。後にこの光子との事が鼎の人生に一つの転機をもたらした。
「方寸」の創刊 - 1907年
明治40年(1907)鼎は石井柏亭、森田恒友と雑誌『方寸』を創刊した。菊倍判八頁。発行部数100部。月刊。定価12銭の『方寸』発行のため、三人は毎月5円ずつ負担をする。米10キロが1円56銭の時代でありかなり高額の負担であった。
「我々の雑誌は出来る丈洗練した絵画と出来る丈緊縮した文字とを以て充たさうと思ふ(中略)。日本に於ける創作的版画は今只我々の雑誌に於いてのみ見ることが出来る」(『方寸』2号)とあるように、この雑誌は美術文芸誌の性格を有し、若い美術家や作家たちの創作拠点とすることを目的としていた。
しかし、「編輯から印刷配本売捌等一切を自力でやるのは並み大抵のことではなかった」と後に石井柏亭が『柏亭自伝』で回想しており、雑誌の発行は困難を極めたが、明治44年の終刊までに35冊を発行、美術・文芸の分野に独特の地歩を築きあげた。鼎は同誌に木版、石版、ジンク版などによる作品60点のほか、俳句、詩、評論、随筆などを発表している。山本鼎記念館が発行した『青春の山本鼎』(平成元年)は『方寸』発表の彼の全版画を収録した画集である。
民衆の暮らしを描く
『方寸』に発表した彼の版画は、貧しくも誠実に生きる人間の真実を語りかけてくる。川のほとりに悲しげに蹲(うずくま)る裸足の青年、その彼を見つめる友人。長い会話の後におとずれた沈黙のひとときが「西河岸」に描かれている。「朝寒」では、長屋の主婦が川辺で立ち話をしている。水桶が足もとにあり冷え冷えとした早朝の空気が伝わってくる。パンの会に属しながらも、隅田川をパリのセーヌ川に見立てるエキゾチズムは感じられない。
鼎の版画には明治40年代の庶民の暮らしがある。そのありふれた日常のシーンを写実的に描いて美に至る作品、それが彼の特徴であった。荒涼とした川辺で主婦が洗濯物を干す「河口」も、田舎の老夫婦が風にそよぐ竹薮の下で働く「麗日」も、寒風の川で労働する「こがらし」にも、そして夏の木材置き場を描いた「炎天」にも同じことが言える。日暮里から田端に続く丘陵の木々が、汽車の煤煙で枯れ果てた「煤煙と生物」は公害がテーマであった。
浅草。「十二階」と呼ばれた凌雲閣とその近くの西洋料理屋を描いた「薄暮」は、「空に真赤な雲のいろ」をパンの会のメンバーが歌っていた明治42年10月の作品である。やや遠くの窓に映る人影にその様子は想像されるが、晩秋の夕暮が落とす建物の淡い影や、点されたガス燈の光を見つめる鼎のデッサンはなぜか青春の傷口をなぞるような筆致である。パンの会の渦中にありながら、すでにそれを追憶するかのような表現が印象的だ。
パンの会発足 - 1908年
明治41年12月、『方寸』を母体としてパンの会が発足する。
パンはギリシャ神話の牧神(パン)で、山本鼎、石井柏亭、森田恒友、倉田白羊などの『方寸』同人と、北原白秋(23歳)、木下杢太郎(23歳)らの青年詩人たちがメンバーであった。
パンの会に出席する芸術家たちは次第に多くなり、高村光太郎、荻原碌山、吉井勇、与謝野鉄寛、谷崎潤一郎、永井荷風、上田敏などの顔も見えるようになった。この会は明治末期の文芸運動とされているが、特定の主義・主張をもつ運動というより、芸術家たちが互いに刺激しあい競合しながら、それぞれの個性と才能を発見していった会合と言えよう。
パンの会は3年半ほどで終わりを告げるが、鼎はパンの会時代に「生温き日」(『スバル』3号)、「製版所にて」(『方寸』3巻3号)の詩二篇を発表している。彼の文学的才能は後の小説にも見られるように豊かであった。
家庭と仕事の狭間に生きる人の姿に鼎はひかれているのだ。それが一転して「今し男は帆を張らむとす」と切迫した調子に変わる。その姿は若い父親でなく、船を操る「男」となる。言うまでもなくそれは鼎の内部をこの人物に投影しているからであり、「コークスの焔」も船の男と鼎の激しい感情を象徴している。このように彼の詩には覚めた目で対象を把握しながら、把握した対象を浪漫的に夢見るという精神の運動が特徴的に現れている。
この詩からニカ月ほど後の『方寸』(明治42年5月号)に、鼎は版画「真昼」を発表している。木陰の向こうに大川が流れ、帆の準備をしている船が描かれている。白シャツ姿の男の背中が小さく見えるが、この作品から「生温き日」の詩的世界を想像することはむづかしい。セピア色と黒と白との調和が美しく、おだやかで日常的な風景なのである。
ところが、「生温き日」を「真昼」の横に置くと、鼎の詩と版画は互いに対立し影響しあい対話を始め、別のイメージを作り出す。鼎の複雑に対立し矛盾する内部世界が見えてくる。
葉書通信 - 1910年
明治43年3月下旬から彼は「上田朝日新聞」に、葉書通信『尋常茶飯録』の連載を始めた。現存する原稿は30回分で山本鼎記念館が所蔵している。署名は峡南または峡南生となっており、その中には『方寸』発表のものとほぼ同じ内容も数篇見られるが、巧みなスケッチと文章が人間鼎をしのばせる。
文中の分裂派は、19世紀末から20世紀初めにかけてウィーンに起こった新芸術運動や作風傾向を言うが、信州の田舎の民家をこのように評価する鼎の美感は抜群であったと言えよう。
3月27日付の葉書には「今朝、詩人北原白秋君から手紙が来た、其手紙の末に『片恋』といふ、出来たての小品が記してあった」と述べ、後に白秋の代表作の一つとなる「あかしやの金と赤とがちるぞえな」を紹介している。
この詩は翌月の『スバル』に発表されており、鼎の言う通り「出来たての小品」に間違いない。雑誌掲載前に鼎に新作を送った白秋は、鼎の批評を先ず聞きたかったのではなかったかと思う。二人の親密な文学的交遊をうかがわせるエピソードとして興味深い。
風の如く一筋に - 1912
明治45年(1912)7月、鼎はパリヘ旅立った。
光子との結婚を石井家から拒絶されたことが彼を海外へ駆り立てたのである。鼎は破談によって「大打撃をうけると共に、自暴自棄の情が荒れ狂った」状態になり、最初はアメリカヘ「労働的金稼ぎ」に行こうとした。「芸術上の優者たらんとする真面目な考への如きは嘲笑」するまでに錯乱した。しかし、親友の小杉未醒が彼を強く諌めパリでの絵画修行を勧めたのであった。当時の事情は鼎の両親宛ての書簡(大正2年10月25日付)に詳しい。
風のごと一すじにこし旅なれど果てぬと思ひ涙迫りぬ
五〇余日の航海を終えてマルセーユ港に着いた鼎は、このような感慨を五首の短歌に詠んでいるが、両親には「運動不足と洋食のため、少し痩せた様に御座候へども気力はたしかに御座候」と伝えている。
1912年パリ
パリはマロニエの葉が黄色に変わろうとしていた。ヴィラ・ファリギュエールの三階に、八畳と三畳程度の二室を借り「面白い様な心細い様な」気分で、鼎は早速版画の制作にとりかかった。渡航費用の返済や生活費を稼ぐため版画道具と材料を日本から携えて来たのである。
しばらくして、エコール・ド・ボザール(美術学校)のエッチング科へも通うが、冬を迎える頃になるとホームシックにかかり、「新聞を送って戴きたく候」「味噌はまだ着かず候」などと両親に訴えることもあった。
貧困の生活
鼎が間借りをしたヴィラ・ファリギュエールの一廓には、エトランゼの貧しい美術家たちが住んでいた。彼もその一人で日本からの送金や、木版工場でのアルバイトでは食費にこと欠く日もあった。オレンジ二個だけの朝食。紙袋の底にわずかな米を見つけ、鰹節をかじりながらの夕食もあった。
モデルのフランス女性が、あまりの寒さにストーブを焚いてくれと言っても、石炭を買う金が無く、手のひらでその肌を時々暖めてやりながら絵を描くこともあった。
「写実主義の学校教育はデテールに拘泥する俺の癖と執拗に結びついてしまった。学校時代に、俺はついぞ一個の人間を書き上げたことがなかった、いつも首から描き出して来て、鎖骨のあたりで一週間の終わりが来てしまった。其癖は今だになおらない(中略)。俺は決して鼻を書く目的ではないんだ、人間が書きたいんだ、まったくどうしたら良いだろう」(「ヴィラ・ファリギュエール雑記」)
制作は難渋し、モデルの前で長いこと絵筆を止めて考え込む鼎であった。
借金に追われる両親 - 1913
神川村の両親は渡仏の際の借金返済に追われていた。母が愛知県の岡崎まで出かけ、鼎の一家を軽蔑している者にまで金銭の相談をしたことを知り、彼は親不孝の自分を責めた。また、金融業者から非常手段に訴えても返済させると言われていることについては、次のような手紙を書いている。
彼の月々の生活費はおよそ100円。パリに滞在する日本人の半額程度で耐えていた。大正2年3月、小杉未醒がパリに来た。彼は『方寸』4号から編集・発行に加わり、鼎が最も信頼する友人の一人であった。
島崎藤村と親交
同じ年の5月、島崎藤村がパリに着きポオル・ロワイアルに親交下宿をする。下宿の主婦はシモネエ。彼は「シモネエの下宿」と呼んだ。藤村は40歳。鼎より10歳とし上であった。当時「破戒」「千曲川のスケッチ」「春」「家」などの作家として知られていたが、妻を失い家事手伝の姪との間に不倫の関係が生じたため日本を脱出したのであった。
数か月後、藤村を紹介された鼎は次第に彼との親交を深めていった。のちに藤村は『エトランゼエ』にパリ時代の二人の交遊をかなり詳しく書いている。
パリの日本人から孤立しようとしていた藤村を、鼎は美術家仲間が集まる喫茶店に連れ出したりした。その喫茶店にはシモンヌという娘がおり、鼎は「シモンヌの家」と呼んだ。「山本君は私と同じ信州の生まれで、私に取って縁故の深い小県地方の人であった」(「エトランゼエ」)と藤村は言っており、鼎に特別の感情を抱いたようであった。
鼎は両親への手紙で藤村のことを次のように記している。
鼎は藤村を45歳と思い違いをしているが、この作家の当時の心境がわかるような手紙である。しかし、親密な仲ではあったが藤村は姪との事を鼎には伝えなかった。それを大胆に告白するのは、長編小説『新生』(大正7年)においてである。
一方、鼎は光子と結婚できなかったことを藤村に打ち明けた。
『新生』の画家
藤村の『新生』に登場する画家・岡は山本鼎をモデルにしている。主人公の岸本は藤村自身とみてよいであろう。
姪との関係で苦しむ藤村と、鼎の感情とは本質的に異なるが、共に女性問題で悩む点において藤村は鼎に「にわかに親しみを感じ始めた」のであった。「岡には山国の農夫のような率直があった」とも書かれているが、鼎の性格にはそのような率直さがあったのであろう。「巴里に居る人で藤村氏と最も懇意な人は私でせう」(前掲書簡)と鼎は言っているが、それも率直に他人を信じる彼の性格をよく表している言葉ではないかと思う。
それだけに、光子との結婚に反対した彼女の母や兄に対して、「憤りと恨み」の感情も激しく、その激しさも率直の現れなのである。藤村は自分とは異なるそのような鼎に関心を抱き、注意深く観察を続けている。
父と子の間にあるもの
シモンヌに人形を贈ることは両親にも報告している。借金の返済に追われている両親は、それどころでは無いといった気持にもなったであろうが、あるひとつの事に集中すると他者の感情を見失いがちになる。それも鼎の性格ではなかったかと思う。光子との事も同じで、結婚に反対した人々の心情や立場を理解する余裕が失われているように見える。精神的に未成熟な部分が多かったのではないか。次のような両親に対する接しかたでもそのことがわかる。
30歳前後の息子が、このように売春婦について堂々と?両親に語りかけている。女を抱く、買う、というような事を再三話題にする息子に対し、両親がどのように答えていたかは不明だが、度々話題にしているところをみれば、両親からもごく自然なかたちで返事が来ていると想像できよう。しかし、一般的にはやや不自然で、鼎の年令を考えるとある種の幼さが感じられる。両親から自律していないのである。学生時代、あの詳細な日記を報告していた鼎がそのままそこに居ると言ってもよい。
このように言う鼎は自律した息子に見えるが、そこには父に寄り添い、慰め、優しく眠らせるような語調がある。それは鼎の中の母性的なものがそうさせているのであって、父を包み込むように働きかけている。父を毅然として守るという自律した息子の論理は見られないのである。
同じ手紙で鼎は借金の返済方法も述べているが、「なんにしろ弱って下さるな。心持ちを悠々閑々として居て下さい。(中略)。どうも父上は自分から老衰を思定しやうとして居られる。私は心細く思ひます。併し不思議と母上が丈夫で居られる様で、これは幸ひです」と言っている。
父親が弱ると鼎が「心細い」のであり、自律していない息子が顔を出している。そして、母親の健康を「幸ひ」と感ずる底には、保護される者としての息子・鼎がいると言えよう。全体としては両親の健康と安泰を願う思いにみちているが、鼎の弱い部分が現れている点で興味深い手紙である。
ブルターニュの夏
1913年(大正2)7月、鼎は小杉未醒らとブルターニュヘ行き8月下句まで制作する。「遠く光子を思い、此処に花など独りつむ己を思い涙を出しながら草の中を日暮れまで」歩く感傷的な日もあったが、『ブルターニュウ日記』にはの次のような記述が目につく。
この地で制作した油彩『ブルターニュの夏』、版画『ブルターニュの女』」などには疲労の影など無いように見えるが、鼎の異常なほどの眠りは悲惨な感じをあたえる。そして、「この一年、この胸に沁み入りたる一年を、落葉を掃きすてたし、しかして壮心洋々として日本にかえりたし」(8月9日)という言葉には、感傷を越えた痛切な響きがある。自分の作風を確立する苦悩、貧しい借金生活、光子への思いなどが重なりあい、疲労が蓄積されたフランスでの一年間であった。
カンバスを燃やして
ブルターニュから帰ったある日、藤村が訪れた。
シテイ・ファルギエールの古い別荘跡はある横町を折れ曲がって行ったところにあって(中略)、幾つかの画室は母屋と相対して、呼べば答えそうな位置にわかれわかれに置いてある。入り組んだ母屋の建築物に続いた横手の方には何をする人達が住むかと思われるような侘しい窓々があった。其の別荘跡の一隅へ石段を上って行ったところに山本君の名刺が出て居た。
(『エトランゼエ』)
鼎は藤村を迎えると、カンバスの木枠を石炭のかわりに燃やして歓待した。藤村は「まだ、君、火も要らないじゃないか」と言ったが、「でも、何だか火が無いと寂しい」と鼎は答え、惜し気もなくカンバスをストーブの中へ投げ入れたという。藤村が『エトランゼエ』で紹介しているこのエピソードは鼎の性格と当時の境遇を象徴的に表している。
画家にとって絵具と同様に大切なカンバスを、客人のために燃やして接待する奉仕の精神。そして「火が無いと寂しい」という言葉。疲れ果てた心を暖めてくれるものを鼎は求めていたにちがいない。
第一次大戦体験 - 1914
1914年(大正3)7月、オーストリアがセルビアに宣戦、セルビア支援のロシアに対抗しドイツがロシア、フランス、イギリスと相次いで開戦し国際戦争に拡大した。この第一次世界大戦を鼎はパリで体験することになる。同年8月、食品市場閉鎖、ガス供給停止、補助貨幣不通などパリは大混乱に陥った。9月1日、鼎は戦火を逃れロンドンのミルズホテルに三カ月ほど滞在するが11月頃から重い肺炎を患い七週間ほど病床にあった。
翌年1月、彼は戦時下のパリに戻るが、「真にわれわれは非戦論者になってしまった」と父に手紙を書き、次のように伝えている。
巴里は依然として寂寥です。国旗をもて柩を蔽うた葬車は、如何なる快活な心をも、忽ち曇らせます。或るときは往来で、小生は声を忍んで泣きました。それ等はすべて戦死者の葬で、一隊の儀仗兵を従い、喪服に包まれし首をうなだれて行く遺族に送られてゆくのです。今朝見たのなぞは、唯一人、十三ばかりの女の児が、即ち送る処の「遺族」でした。柩には下士の制服が掛けてありました。(大正4年3月書簡)
ロシア経由で帰国 - 1916
1916年(大正5年)6月、鼎は帰国の途につく。パリを去る時「自分は留学の間に、はっきりした信念を掴むことが出来た。それは即ち、リアリズムの信念だ。―これさえあれば、自分の生はきっと正しく強く支持される」(「農民美術と私」)と確信する。 この「リアリズムの信念」は、後に『自由画教育の使命』(大正10年9月)で「自由画教育はリアリズムに建って居る。絵画史上のリアリズムでなく、ただ各々の眼で見よ、各々の霊で観よ各々の趣味で統べよ、といふ哲学的なリアリズムだ」と述べる鼎独特のものであったとみられる。
モスクワでは平田領事の世話になり、帰国の旅費を得るため六カ月ほど滞在するが、早稲田大学教授で文芸評論家の片上伸や、ロシアの美術家たちと知り合いになり、油彩「H婦人像」「サーニャ」「モスクワ」などを制作した。
片上伸と共に訪れた農民美術蒐集館では、同館の専門職員を紹介されたが「製作三味な生活に駆け込む考えでいた」鼎は、農民美術の「くわしい話を聞こうともせず階下で素木人形の安いのを」少しばかり買っただけであった。(「農民美術と私」)。同じ頃、児童創造展覧会も観覧した。片上によれば当時ロシアでは、子供たちに図画の臨本教育を行っておらず、この展覧会は「山本君を刺激した」と語っている。(『中央美術』大正8年6月号)
白秋の妹と結婚
モスクワ滞在中、北原白秋と懇意な青年が日本からやって来た。彼は南ロシアの東洋語学校に招聘され現地に赴く途中であった。鼎はその青年から白秋の妹・家子(いゑ)との縁談を聞かされる。『胡瓜』(大正8年)という随筆に鼎はその時のことを書いている。
鼎はそれまで彼女に無関心であった。容貌についても定かではない。「丸い方の血色の良い顔で、少しちぢれ毛でしたね」と言うと、青年は「いえ、ちぢれ毛じゃありませんよ、丸顔でもなく、むしろ細面ですね。それに此頃は顔色は青い方ですよ」と答えている。しかし、鼎は縁談をその場で受入れ、パリで作った詩を片上や領事夫妻の前で朗読するなど喜びを隠さなかった。帰国した翌年(大正6年)二人は結婚する。
児童自由画・農民美術の提唱 - 1917年
大正6年(1917)2月、小県郡神川村の金井正(31歳)と山越脩蔵(23歳)の二人に鼎は児童画の教育を改革しなければならない事を説いた。上田の菊与亭(横町)での会合は長時間にわたったという。
鼎はこのような事を語ったと山越は回想している。(「山本鼎を偲ぶ」・『神川教育八十年』昭和54年 所収)。また、「君たちは日本のオブローモフではないかね」と鼎に言われた意味がわからず、その説明を求めたあと「金井さんと私は異口同音にオブローモフ的生活は好まない」と答えたことも同じエッセイに記している。
オブローモフはロシアの作家ゴンチャロフの小説『オブローモフ』(1859)の主人公の名。聡明で才能は豊かだが無気力で農奴の労働に寄生している典型的な地主である。
鼎が初対面に近い金井、山越を何故「日本のオブローモフ」と言ったのかは明らかでないが、中等教育を受けた村の知識人であり、蚕種製造業者として経済的に豊かな二人に、社会的な行動を促すアジテーション(煽動)の意味があったのではないかと思う。彼等は後に自由画や農民美術運動の費用を負担するなど全面的に鼎に協力することになる。
農民美術運動については当初、父親の「晩年の事業」と鼎は考えていた。
日本創作版画協会設立
自由画と農民美術運動の構想はこのように帰国後間もなく、二、三の者に伝えられたが、多忙な鼎は容易に構想を実現できなかった。『油画の描き方』(大正6年・アルス刊)の執筆、日本美術院洋画部同人となり、同展に「モスクワの夏」「セーヌ河の洗濯船」など15点を出品、北原家子との結婚、「みずゑ」「読売新聞」「中央美術」等に執筆など、渡欧前とは異なる生活が始まったのである。
大正7年には、寺崎武男、織田一磨、戸張孤雁と日本創作版画協会を設立、会長に推され東京・日暮里1060番地の自宅を事務所とした。翌年第1回日本創作版画協会展を日本橋三越で開催、25名の作者が189点を出品した。
「版画が美術上の創作として独立しうる事はもはや疑う人はあるまい(中略)。
日本の美術を代表する浮世絵と称する木版版画の成績を回顧して、その伝統ある技術を新しい生命に冴えかえらす事である」(「日本創作版画協会第一回展目録」)と、鼎は述べている。
初めての演説 - 1918年
そして、ようやく大正7年12月、「児童自由画の奨励」と題し、神川小学校で演説をするはこびとなった。「生まれてから初めての演説で、吃った慄えたり」しながら彼は教師たちに自由画運動の目的を次のように力説した。
私が「自由画」と称へるのは、写生、記憶、想像等を含む ―― 即ち、臨本によらない、児童の直接な表現を指すのであります(中略)。子供は専ら臨本で画を学ぶ、といふ旧風を一掃してしまはなければいけないと思ふのです。見本を与へて子供に真似させるよりは、自由に「自然」へ放牧して、彼等に産ませねばいけません。其方が大人に取っても興味ある事だし、子供にとっては有意義です。児童等は、「自然」との間に直接に画を産みながらひとりでに美を味解してゆくでせう。美とはさういふ性質のものです。
(「日本に於ける自由画教育運動」)
第1回自由画展 - 1919年
演説会場には鼎の主張に賛同する者が多く、児童自由画展の開催やその運動を全国的に広めて行くことなどが協議された。
大正8年(1919)4月、神川小学校で開かれた第1回児童自由画展覧会には長野県下の54校から9800点の作品が寄せられ、1085点が鼎によって入選と決まった。応募総数に対して入選作が少なかったのは「大部分が臨画」であったからで、「自由画の趣意に適った、そして鮮明で特色のあるもの」は300点という成績であった。 (「日本に於ける自由画教育運動」)
しかし、応募作品が予想以上に多く、観覧した児童も7000人を超えたことから展覧会は大成功に終わり、自由画運動は順調にスタートしたのであった。なお「信濃毎日新聞」(大正8年4月29日号)は二段抜きで次のように報じている。
農民美術練習所を開く
大正8年12月、神川小学校の教室を借用して農民美術練習所が開所した。金井正、山越脩蔵の「熱心な協賛によび出されて、今度は目前の事業と急転した」(「農民美術と私」)と鼎が言うように、彼を直接動かしたのは神川村に住むこの二人の青年であった。
このような『日本農民美術建業の趣意書』を配布し、青年会、婦人会の役員にも趣旨を説明して練習生を募集したが、応募者はわずかに男性4人、女性4人だけであった。しかし、その後次第に人数がふえ翌年の3月までには男性7人(木彫部)、女性13人(刺繍部)となった。
農民美術練習所開所当時の講師は、山本鼎、村山桂次、山崎省三、杉村鼎介、西川喜代、柴田てい。顧問吉田白嶺、理事金井正、山越脩蔵であった。
農民美術練習所開所式 br>中列左から4人目 山越脩三、5人目 山本鼎、6人目 金井正。 br>大正8年12月5日 神川小学校玄関にて br>
松田道雄の回想 - 1920年
松田道雄は「一市民のマルクス主義体験』「(展望」昭和39年11月号)で、この展覧会の翌年から自由画教育を受けたことを次のように回想している。
大正リベラリズムは政治運動としてはなにほども民主主義的な機構をつくりださなかったが、精神の潮流として、教育者たちの頭脳から古いものを、何ほどか洗いおとした。それは芸術にたずさわる人たちをまず動かしてあたらしい芸術教育の運動をひきおこしたのだった。私の小学校五年のときにいままでの「臨画」という手本をみてかく図画は廃止になった。 自分のすきな題材をえらんでかくことになった(中略)。いまにして思うと、その一九一九年という年は山本鼎が信州で第一回児童自由画展をひらいた翌年であった。(注・展覧会の翌年は1920年。記憶違いであろう)
自由画教育の導入で「臨画の名人たち」は、にわかに色あせて行き「いままでクラスのなかで目だたなかった何人かの級友を一躍してトップスターにした」とも松田道雄は言っている。彼は京都の小学校に通う児童であったが、自由画運動が急速に全国に普及して行ったこともこの証言でわかる。
野の草木を手本に
農民美術の図案は、野原の草木を手本とした。講師たちは練習生と一緒にそれらを採集して来て図案を考えた。「夏ならばかへり見られない雑草も、裸の茎を見せて珍重された」(「農民美術と私」)というように、野茨の枝、ススキ、カルカヤ、松笠、野葡萄など、教材は山野にあふれていた。
「教師も生徒も、美術品や印刷物をすてて自然へ向かった。あらゆる美術の源泉となり、常に無限な資料を展開して居る、態と彩と、組織の沃野に向かった。それは不思議にも図案の処女地であるが、其処に造形美術の真の耕作があるのだ」(「覚書き」)
と鼎は言っている。サンプルを排し、生徒が見たものを自由に表現させる指導は児童自由画のそれと同じであった。
ある雪の日、鼎が採集して来た「赤い実をのこした茨の枝」などを前にして、女子部の生徒は「いつまでも当惑した嘆声をもらして居た」という。実際にそれを図案化するのはかなり難しいことであった。しかし、そのうちに彼女たちは一所懸命に「アールヌーボー式にねじまげたシンメトリカルな図案をやり出した」(「覚書き」)のである。
三越で展示即売会
農民美術練習所が開所した翌年(大正9年)5月、練習生の作品が東京・三越デパートで展示即売された。出品点数は次の通りである。
農民美術練習所での作業期間は12月5日から翌年の3月31日までであった。その間に20人の練習生がこれだけの作品を製作したのである。三越での展示即売会では、売約総数988点、予約総数364点(合計金額約590円)という予想外の好成績をおさめた。
これに対する有識者の反響はさまざまであった。「思想家は創造的労働といふ点と、副業的価値に由る普及性を見て取って声援」したが、「芸術家は原始的な意匠と技工を愛する情を以て、農民美術といふ名称には心を止めても、それが現代に産業的使命を帯びて建業される事には興味を有たない人が多く、むしろ左様な、庶民的な芸術の発生を悦ばない感情が示された」という(「覚書き」)。
鼎は次のように考えるのであった。
鼎の「欠伸」と「脱線」
児童自由画と農民美術を提唱した頃、鼎は「美術家の欠伸」(大正8年8月)と、「農民美術と私」(大正9年7月)を書いている(『美術家の欠伸』所収。アルス刊・大正10年)。この二篇のエッセイには当時の複雑な心境が率直に述べられていると言えよう。
「美術家の欠伸」では、美術家の堕落、美術学校に版画科の設置、自由画運動のことなどを話題にしているが、
「自然を眺めては欠伸、画を眺めては欠伸さ。つまり、未だ何の奇蹟も現さない己れの性格や才能に飽きて居るせいだが、それよりも十年来見古した我が画の平凡な表現にあきあきしたんだ(中略)。写生家の極致を君は知っているかい!。写生家の極致は、筆を投じて嘆じる事一それだ」
と結んでいる。
「農民美術と私」は、表題の通りその大半を農民美術を始めた前後の事情に費やしているが、「さっき、ふいと『美術家の脱線』といふ言葉が口に出た。それを再び声に出して私は顔を天井にむけて笑った。昨年欠伸した美術家だった私は(ずっと前から欠伸して居るのだが)今年は脱線した美術家になってしまった」と、やや自嘲的に語り出している。
二篇のエッセイは軽井沢のアトリエで執筆されている。つまり鼎は「美術家」としてカンバスに向かって夏の季節を過ごしている。しかし、彼は自由画展の開催や講演を行い、農民美術の指導や展示即売会の開催などで忙殺される「運動家」になりつつあった。
「永い間私の原動力であった『美術家』が私に飽きられたのだ。其力が私の全体を支持する事が出来ずに、他の圧力に負けて分裂しはじめたのだ。考へて見ると此の淘汰にはいやに深刻な皮肉なものがある」
アトリエでの鼎はこのような自己分析を行いながら、「昨年来私が没頭して居る自由画教育の提唱も、日本農民美術の建業も要するに其分裂の破片を意味するものなのである」と結論する。
きのふ故に夕暮重し
身の故に夕暮かなし
あす故に夕暮苦し
アンリー・ド・レニエの詩を引用しながら、「私のする事はすべてが辻説法だ」と言う鼎の心は、「分裂」した自己の狭間でデリケートに揺れ動くのであった。
自由画教育運動の展開 - 1921年
山本鼎の提唱した自由画教育運動は、全国的な広がりを見せながら教育現場で迎えられ始めた。しかし、自由画に反対する人々もいて鼎は論戦を続けなければならなかった。
長野県では自由画教育が急速に普及し図画教育の主流となったが、「その背景として当時長野県に盛りあがっていた自由教育・個性教育思潮があることを見落とすことはできない。自由画は、自由主義教育運動に支えられ、また、その運動の一環をなすものであった」と『長野県教育史』(第五巻・教育課程編二)は述べている。
文部省は明治43年発行の『新定画帖』を、昭和6年から改訂作業を進め同9年までに『国定小学図画』を、同11年には『高等小学図画』を刊行した。この新しい教科書は「自由画教育の反省に基づいて編集され、児童の生活拡充に重点がおかれたため、生活化の図画教育といわれている」(「長野県教育史」第五巻)。
『自由画教育』を出版
大正10年(1921)、鼎は『自由画教育』(東京・アルス)を出版した。本書は自由画教育運動に関する彼のエッセイをほとんど収録したもので、「此本の刊行を以て、一とまづ自由画教育に関した議論を切り上げやうと思ひます」(「自序」)とある。内容は「自由画教育の要点」「自由画教育の使命」「日本に於ける自由画教育運動」「自由画教育を行ひつつある学校」「反対者に」「いろいろな質問に」などとなっている。
この中で鼎は自由画について次のように説明している。
反論する鼎の言葉
このような自由画に対する多くの反対論、疑問点も続出し、鼎は孤軍奮闘した。教育論としては未成熟で論理化されていない部分も少なくないが、情熱的に反論を試みる彼の言葉には説得力がある。「反対者に」(『自由画教育』所収)から彼の説を引用しよう。なお、反対論の掲載誌は『図画教育通信』『図画研究』などで、大正9年(第1回児童自由画展の翌年)に多く見られる。
児童の作品を批評
『自由画教育』には28点の自由画が口絵として収められている。このうち2点を除き「すべて大正8年以来の、自由画教育下の莫大な成績のなかから選り抜かれたもの」(「口画に就いて」)であり、鼎が次のような批評をしている。
なお、大正10年1月、雑誌『芸術自由教育』(アルス刊)が創刊され、鼎は片上伸、北原白秋、岸辺福雄と共に編集委員となり自由画の向上に尽力したが、同誌は10号で終刊となった。
クレパスの商品化 - 1925年
大正初期には小学校の図画の時間には、色鉛筆や水彩絵具が使われていましたが、自由画に最適な画材としてクレヨンがよく使われるようになりました。しかし当時のクレヨンは現在のものとは違って硬く、線画には向いていましたが、面を塗ったり混色したりということには向いていませんでした。
また、ヨーロッパで使われていたパステルは、発色がよく画面の上で混色もできましたが、チョークのように粉っぽく、画面に定着させるには定着液を吹き付けなければいけませんでした。
鼎は、子どもに親しみやすく安価で発色のよい手軽にのびのびと使える画材の必要性を訴え、当時の櫻クレィヨン商會(現在のサクラクレパス)がそれに応えて、クレヨンの使いやすさとパステルの発色を兼ね備えた画材を開発、大正14年に「クレパス」として商品化しました。
農民美術の普及 - 1923年
神川小学校の教室を借用していた農民美術練習所は、第2年度(大正9年)に神川村国分の金井正宅の蚕室に移り、翌年には同村大屋に1000円ほどの建築費で小さな青い屋根の工房を完成させた。その費用は鼎が『自由画教育』の印税を前借りしたものだった。
そして大正12年、日本農民美術研究所が新築され、本格的に講習が行われるようになった。また、農民美術生産組合が組織されるなど、その運動は着々と成果をあげながら、昭和の初期には長野県各地のほかに、東京、岐阜、京都、千葉、神奈川、埼玉、福岡、熊本、鹿児島などでも作品が生産されるようになった。
日本農民美術研究所
農民美術運動の拠点となる施設の建設は、当初からの構想であった。「露西亜のクスタリヌイミュゼエの形式に学び、まづ農民美術教習所を設け、志望者を集め教習に従ひ、漸次拡張して『農民美術学校』の組織に達しようとするのであります」(「日本農民美術建業の趣意書」)と述べている。この農民美術学校にあたるのが日本農民美術研究所と言ってよいであろう。
鼎は先ず、神川村大屋に500坪の土地を坪当たり40銭で借り、建設費の金策に奔走した。農民美術の練習生からは受講料を徴収しておらず、製品の売上げで講師の謝礼や材料費などを捻出するという経営であったから、財政的には困窮状態が続き金井正や山越脩蔵などが経済的な援助を行っていた。鼎は東京に住み自由学園に週二回出講しながら、研究所の建設や農民美術練習所の運営にあたるなど、多くの事務に忙殺された。
大正12年(1923)、ようやく日本農民美術研究所が完成した。設計は滝沢真弓(長野県出身)で、「農家の様式を基調として多少の洋風を加味した」(滝沢真弓書簡)、山小屋風のエキゾチックな感じの建物であった。「農民美術・・露西亜・・社会主義、といふ風に、観望して居る人が、案外世間に多いとの事です。あいた口がふさがらずです」と鼎が土田杏村に言っているように(大正11年11月書簡)、この建物の様式には「ロシアの・・引きつづいて共産主義の・・何物かがありはせぬかと、土地の警察署が目を光らせた」(滝沢真弓書簡)というような噂もあった。
同年4月の開所祝賀式には長野県知事らの祝辞があり、前文部次官南弘が来賓として出席した。参列者150名の中には北原白秋もいた。
髪を洗ふ人形は春を待ってゐる、首の根っこで手を合わしてる
寒い寒い信濃の冬の豆人形みんな頭から裂布かぶってる
ふかしたての赤馬鈴薯をごてごて盛って食べろと出した木彫科の鉢
白秋はこのような「農民美術の歌」40首を詠んでいる。
なお、講師陣には倉田白羊、渡辺進、永頼義郎、足立源一郎、木村和一、村山桂次、竹内藤吉、田中ふみ、溝口碧を擁し、絵画科、版画科、塗術科、木工科、機織科、木彫科、染色科、刺繍科が研究所に設置された。
『農民美術』を創刊 - 1924年
大正13年9月、鼎は雑誌『農民美術』を創刊した。奥付によると、編集発行兼印刷人山本鼎(東京・大森源蔵原2810)、発行所日本農民美術研究所出版部(東京・麹町区山下町1の1)、定価20銭となっている。創刊号には「農村の副業を想ふ」と題して、農商務大臣高橋是清、貴族院議員南弘ら6名が執筆している。日本農民美術研究所のスタッフでは、意匠部山本鼎「農村副業の新生面」「いろいろな木彫人形」、調査部足立源一郎「オースタリ・ハンガリの農民美術」、教育部倉田白羊「北城村の木彫講習」、木彫科村山桂次「土産品向木彫人形製作法」が掲載され、口絵で日本、ドイツ、ロシアなどの農民美術17点を紹介している。
同誌は1500部を印刷し、発売直後に160部の注文があった。営業事務は鼎の家で行い、全国から注文処理や経理を彼の妻(家子)などが手伝った。しかし、1千部を売らないと採算がとれず9号で休刊した
青年たちの将来を思う - 1926年
農民美術の練習は男女共学であった。女子は男子のシャツのほころびを縫ってやり、雛祭りなどには男子が女子のために手料理を作ってやることもあったという。そして、作業に飽きると男女でコーラスをしたり、野原へ散歩に出かけることもあった。講師の村山桂次は「在来の農家の子弟としての彼等に及びもつかぬ自由な天地であったのだ。果たして、小学校の先生等、村の人等はそのあまりな自由を危んだ」と言っている。しかし、彼等は「極めて自然に男でも女でもなしの唯の友人にすぎなかった。何のわだかまりもなしに楽しく遊び、仕事を続けて居た」のであった。
(「青屋根以前」。『農民美術』大正15年6月号)。
ある日、山本鼎は女子練習生と語り合っているうちに、彼女たちは結婚すると農民美術の仕事をやめなければならない事情にあることを知った。
鼎はその時の会話をリアルに記録している。農村に住む嫁の立場をあらためて知りショックを受けたにちがいない。彼は次のように考える。
農民美術は、経済的自立と自己表現をともなう「人間の生活」のためのものでもあると鼎は認識したのであった。「私は想ふ、将来、各村に、農閑の娯しい手芸的労働によって結合された優良なる男女青年団がつくられる時期を」(「覚書き」)とも彼は言っている。これは平等な立場で男女が住みよい村づくりをしていく組織的な集団のことであろう。
金井正の批判 - 1931年
日本農民美術研究所の指導により、昭和6年1月長野県農民美術連合会が発足した(25組合が加盟)が、各組合の生産品は「郷土的色彩を保持すると共に、生産販売両方面にいろいろの経済的条件を考慮し、品物の種類を出来るだけ当代の生活必需品中に選んで行くことになりました」(「農民美術に就いて」日本農民美術研究所。昭和6年8月)としている。ここには、おだやかな表現ながら販路拡張の苦悩と、農民美術のより一層の商品化が示唆されていると言えよう。
その後、金井正は「転向期の農民美術」を『日本農民美術研究所々報』(昭和8年)に発表し、痛烈に過去の誤りを指摘しながら農民美術産業の今後の方向を指し示した。
周知のように金井は経営面において長く農民美術の事業を支えて来た。しかし、この論文発表の数年前、約8万円の負債をかかえた鼎が日本農民美術研究所長を辞任、金井がその運営を一切背負う形となっていた。「農民美術研究所を一手に受けた金井正は、昭和7年に妻かつに財産をゆずり、戸籍上、離婚してまでこれを守りつづけようとした」(『山本鼎の手紙』脚注)という。金井の生活も農民美術事業のために危機的な状況にあったのである。
農民美術の建業から13年、山本鼎は結果としてこのような批判を受けなければならなかった。金井は農民美術が「特殊商品の限界を脱して、一般商品にまでその位置を高むる」ためには意匠、工作など改善すべき点を鋭く指摘している。そして、次のように結ぶ。
山本鼎の晩年 - 1931年
大正初期、フランスヘ渡った時も鼎は多額の借金に苦しんだ。帰国後は農民美術の事業などで再び莫大な負債をかかえてしまった。
彼の半生は借金との戦いであったとも言えよう。「借金を新たに作る危険のない生活、安静な製作生活に転じやうと覚悟しました。」と東京・大森の自宅から神川村の両親に手紙を書いたのは、昭和6年(推定。年月日不明)であった。
この手紙は彼の生活に重大な転機が訪れたことを物語っている。鼎は49歳、すでに二児の父親になっていた。
生活の窮乏
彼は身辺整理案として「家族に病人がでないやうな生活」「作家生活に好都合な生活」「差押へ其他に脅かされない住居」「世間から見ても質素なくらし」「一ケ月三百円以内で出来る生活」をあげ、両親に諒解を求めている。
しかし生活費は300円で済ますとしても、「仕事(注・農民美術など)の方や掛金や利子、決済金等で月々すくなくとも千円の収入を志さねばなりますまいと思ひます」と言っており、絵を書いて売るというだけの収入では、思うようにこの案を実行することはできなかった。
「八月以来(注・昭和6年)未曾有の困難におち入り、九月の初め、終に破産状態になって(中略)、昨今は十円の金も工夫出来ず、唯画作労働で家族を扶養する自信があるだけですが、これが毎日の如く起って来る債務問題に悩まされて仕事が捗らず、往生して居る場合なのであります」(山越脩蔵宛て書簡)という状態に陥っている。さらに、昭和7年5月には「昨冬最後につまり、債務者会議をしましてから、事態は、一層深刻さを増して家族の食といふ一事のみを、やっとすまして来た次第です」(山越富子宛て書簡)と訴えているように、生活は窮乏の一途をたどるばかりであった。
父としての鼎
鼎は二児をもうけている。長男太郎は大正14年に、二男次郎が昭和4年に生まれた。妻の家子は「夢二氏(竹久夢二)のいひやうもないユメミテエル(注・夢見ている)やうな大きな瞳」(室生犀星「我が愛する詩人の伝記」)の女性で、どちらかといえば病弱で、次郎出産のころ「産婦も、心臓が悪く」(金井正、倉田白羊宛て書簡)と鼎は言っている。
太郎、次郎の二人の子に鼎は旅先から必ず手紙を書き、子供たちも父親に返事を出したり近況を伝えた。それは鼎と両親の間にしばしば書簡が往復したのとよく似ている。
鼎には岩崎ナカとの間に生まれた朝太郎という子もいた。ナカは彼より30歳とし下で昭和6年頃、「弟子にしてほしいといってきた」女性であった(小崎軍司『山本鼎評伝』)。朝太郎が生まれたのは昭和9年である。
制作に専念 - 1932年
鼎はこの頃からおよそ10年間、絵画の制作に専念し生活再建の苦闘を続けた。昭和7年、銀座で個展を開催、「たき火」「白菜図」など40点を出品。8年、札幌市で足立源一郎と二人展を開催、総額2900円の絵の半分が売れた(岩崎ナカ宛て書簡)。
10年、南弘らの協力で作品頒布会。11年には新文展洋画部審査員となった。12年、福井県へ写生旅行し「越前海岸・河野」ほかを制作。13年、銀座で個展を開き、台湾へ写生旅行し「淡水江風景」などを制作。日本版画協会第七回展には「デッキの一隅」などの旧作21点を特別出品した。14年、瀬戸内海方面で制作。
15年、東京日本橋三越で個展を開催、「或朝の富士」など30点を出品。この年に「山本鼎氏を画壇に歓送する会」が開かれた。しかし、この頃になっても多額の負債は残っており、銀行からの「きびしい督促状」が来たり、「執達吏のくるのを恐れ」て逃れるように写生旅行に出る生活であった(小崎軍司『山本鼎評伝』)。
脳溢血で倒れる - 1942年
昭和17年11月、鼎より3歳とし下の義兄・北原白秋(57歳)が死亡した。その葬儀委員長をつとめた彼は8日後、写生旅行先の群馬県榛名湖畔で脳溢血のため倒れ半身不随となり、その後は療養生活を続けることになる。
老生の病状は緩歩ながら快方に向ひつつあり、但し此頃油絵でバラを描いて見て、内心狼狽を感じた。眼と手が別々に働き、明らかに精神の萎縮を見る。近く信州に湯治し其閑静な環境から心身の復活を効果して来たい。
昭和18年6月、佐賀高等学校に学ぶ長男太郎に、鼎はこのよう書き送っている。その後、長野県小県郡青木村沓掛温泉に療養、「散歩、入浴、ひるねが毎日の日課であります。まだ絵筆などはとらず、自然に対して思惟独悟を専らにして居ります」(林倭衛宛て書簡。昭和18年)というような生活をしばらく送り帰京した。
上田市へ疎開 - 1944年
昭和19年、太平洋戦争の戦況が不利になり、東京爆撃に備えて地方への疎開が行われるようになった。鼎は妻に信州への疎開をうながしたが、「不便な場所は嫌」(小崎軍司『山本鼎評伝』だと断わられ、同年3月岩崎ナカ、朝太郎と共に上田市袋町の借家へ移住した。
それを知って、金井正や農民美術の練習生だった中村実らが食糧などの心配をしてくれた。夏には軽井沢のアトリエで浅間山を描くまでに一時回復し、11月、袋町に近い馬場町へ移った。
「親農の美術」を提唱
戦時下、不自由な療養生活を続けながらも、鼎は美術界のために働こうとした。上田市で年々開催される美術展覧会が「思い思いの柄を見本市的に列べた無性格」のもであることを批判し、昭和19年5月、「親農の精神」に基づく親農美術家協会の結成をうながしている。
「小生は病気の為弁舌が不自由故、文字を舌代に致します」で始まるこの提唱は、B4判のザラ紙一枚のもので、末尾に「袋町にて山本鼎述」とあるが彼の自筆ではない。
この印刷物は上田地方の美術愛好家たちに配布されたようであるが、どれだけの反応があったかは定かでない。上に引用した文章で明らかなように、彼は地域に根をおろした美術活動を提唱し、地域の風土から生まれる芸術を創造しようと呼びかけたのであった。
昭和20年3月10日、アメリカ空軍B29約330機が東京を爆撃、家屋焼失およそ23万戸、死者約10万人などの大被害を与えた。その頃、鼎の妻子などが金井正らの世話で神川村に疎開した。上田から3キロほどの場所である。長男太郎はその疎開先から海軍予備生として出征した。
鼎の病状は思わしくなく「歩行は依然不可能、写生に出られる日などまづ及びもつかぬ望み」(太田茂宛て書簡。昭和20年6月)という状態で、岩崎ナカが世話をする毎日であった。
晩年の俳句 - 1945年
馬場町の寓居で鼎は俳句を多く作っている。青年時代に蕪村の句にひかれ、『方寸』創刊号(明治40年)に「落窪に掃きよせられし椿かな」などを寄せているが、彼の父も俳句を好む人であった。
配給の真鯉は桶に凍りけり
配給の馬肉煮て見る夜寒かな
百舌鳥鳴くや梢に柿の十ばかり
夕ずく日木枯の野の冬さびて
これらの句には、病む自分をいたわり、寂寞とした人生を静観するような感情が表現されている。
臨終の時 - 1946年
昭和21年(1946)10月、鼎は上田市内の病院で腸捻転の手術を受けた。岩崎ナカと上田中学生の次郎が付き添っていたが、鼎は妻の家子を病室に呼び和解を求めたという(山本次郎「父、山本鼎」)。それから間もなく彼は死去した。64歳だった。鼎は生前、上田市内の大輪寺に葬られることを希望していたと岩崎ナカが主張したため同寺で密葬、遺骨は東京・江戸川区の申孝園に納められ、分骨が大輪寺に埋葬された。
プロローグ
山本家で20年に渡り飼われた何匹かの犬、哥路。鼎の作品にも何度か登場している。かれの作品の哥路の描写には悔恨と優しさがあふれている。
二人が、午後から、私の親達の住む大屋駅へ行って、翌日帰った事がある。星野を出る時、二人の後を追わないやうに、一たん哥路は柱へ繋がれたが、ちゑ子の同情でまたほどかれ、彼れは沓掛駅へついて来て、吾々が列車へ乗り込む後から素早く飛び込むで、腰掛の下へもぐってしまったには困った。私は勿論、抱き出して追ひ帰した。ちゑ子が室から見守って居て「あ、哥路さんが帰ってゆきますよ」といふので、見ると、駅前の坂になった広場を哥路が尾を地に曳いて、星野の方へ走って居るのであった。だから、私共は、哥路が一と筋に別荘へかへった事と思って居た。処が、翌日帰って聞くと、哥路は其晩の十一時頃に帰って来たといふのである。(中略)哥路は汽車の走った方角に、夜までも走りつづけて又立戻ったのであるらしい。
山本鼎 「哥路」より
山本鼎 「哥路を抱く婦人」 作品(右)と版木 1,2(上)
小説「哥路」(コロ)
室生犀星は『我が愛する詩人の伝記』の中で、北原白秋を回想しながら山本鼎にもふれている。
鼎はこのように小説にも深い関心を抱いていた。彼の小説は『美術家の欠伸』に、「小さな細君」(明治41)、「哥路」(大正8)「声とことば」(大正10)の三篇が収録されているが、犀星の言うように大正期の『中央公論』には、この他にも小説が発表されているであろう。
上の三篇では「哥路」が良い。大正8年3月号の『中央公論』に発表された。同号の創作欄は北原白秋「葛飾文章」、谷崎潤一郎「画舫記」、そして「哥路」の三本である。なお、白秋は鼎の「哥路」が発表された翌年、「大阪朝日新聞」(夕刊)に、「哥路の難」(後に「哥路」と改題)を41回にわたり連載している。コロという犬をめぐる鼎と白秋の競作の観がある。
白秋の愛犬をめぐって
この小説は白秋の愛犬コロを鼎が預かり・大切に育てているうちに三匹の子を生むが、やがて行方不明となる話で、白秋は三原氏、その妹家子はちゑ子となっており、一人称(私)の作品である。
ちゑ子と婚約中の「私」は、「ちゑ子を待ちまうけながら、彼女の足音を聴くと忽ち気楽さを失ひ、扮はれた快活でちゑ子の無口な羞にむかわなねばならなかった」がコロが二人の間をとりもつような役割を演じたりする。
ある日、コロが妊娠していることに気づく。「哥路の最初の性交として、良い犬を掛けてやろうと思って居た」ので「私」は立腹し、コロを嫌悪し始める。気の荒くなったコロが「私」の手に噛みついたことから、とりあえず三原が引き取るが、彼と「私」は生まれた子犬とコロを捨ててしまう。
コロヘ愛憎に悩む
やがて、ちゑ子と「私」は結婚する。捨てられたコロが帰って来る。再び捨てに行ったあとで「私」は反問する。「哥路に悪い処はない。併し、彼に対する私の愛情を、卒かに冷してしまったものは何だ? それはたしかに明瞭な事実で證す事が出来る。だが、私が哥路に向けた愛撫と嫌悪とは、一体、神の意志にかなったものであったらうか? どうも、それは不合理な愛憎であるやうだ、とはいへ、直接に自分の心を動かした、あの美と醜との印象を何とする?」
夏が来て、軽井沢に滞在する時「私」は再び帰って来たコロを一緒に連れて行く。コロは度び重なる出産で衰え「私」は哀れを感じ始める。
哥路は私が、草のなかに座って写生して居る間、私の膝に寄りかかって眠る事もあるし、近くの草叢に何かを見つけ、慌ただしく地を掻いて居る事もあった。(中略)私はどんな深い草叢にでも踏込んでいった。哥路も続いて飛び込みはするが、彼の背が低いために、あらゆる草の葉尖で顔を突かれるので、段々おくれてしまひ、全く私を見失ふと、街道まで引きかへして心配さうに待って居た。
コロは後に姿を消すが、「哥路の半生は、むしろ私の孅海を意味するものとも云へるのだ」と、鼎は思う。
幻の版画「哥路」
小説「哥路」は、激しく揺れ動く鼎の心情を率直に描き出した力作である。あの深刻な反問も彼の性癖であろう。犬一匹のことでも鼎にとっては真剣に心を悩ます存在となる。そして、軽井沢でのコロの描写には悔恨と優しさがあふれている。版画や油彩にも同じような彼の眼差しを感ずるが、小説においては直接的にそれが表現されている。
山本鼎記念館所蔵の版木「哥路」は大作で、コロを抱く女性は家子夫人と思われる。しかし、刷られた作品が未発見なため幻の版画となっている。また、同館には鼎自筆の詩「庭」(軸)が展示されているが、その中に「私の哥路は庭ぢうに蒸されるそれらの濃い体臭に癖易して橡の下に逃げ込みました 地を掘り、冷たい土に腹をつけて、ハッハッと舌を吐きながら 眩しさうに緑色の外光を見て居ます」とある。
ちなみに、昭和12年、鼎は幼い息子の次郎に宛て、「今ノコロは何代目ノコロチャンですか」と旅先から葉書で問いかけており、二日後に「コロは死んだか、どうして犬がこう死ぬかな。もう犬を飼うのは、しばらく、おやめなさい」と言っているのを見ると、コロと名づけて20年も何匹かの犬を飼い続けていたことがわかる。なお、昭和18年、晩年の鼎は佐賀高校生の長男太郎に「哥路」はさかりがついたか、此頃家に居ない時間が多い」と書いている。その後も犬(コロ)と一緒に暮らしていたのであった。初代コロの飼い主だった白秋はこの手紙の前年(昭和17)に死去している。
白秋の「哥路」
北原白秋の小説「哥路」は、鼎のそれとほぼ同じストーリーであるが白秋の側から見た鼎が興味深い。鼎の小説ではコロを捨てる話に白秋が登場し、犬に対する愛憎が薄いかのように描かれている。白秋はそのことが気になったのであろう、実は自分の方がより深くコロを愛していたと訴えているような作品であり、当時の貧しい生活を描く事にも力を注いでいる。
鼎は洋画家・牧。白秋は純吉。その妻・すみ子。白秋の妹は智恵子となっている。純吉夫妻はコロを連れて千葉から東京に移住するが、住居の関係で牧に犬を預かってもらう。彼はコロを可愛がりその美しさを「まるで英国女王の狆のやうだ」と賛美する。そして「余っ程いい種犬でなければ、掛けさしたくないよ、精々立派な相手を探してやらう」と言い、「哥路の処女たる事を信じ」て、交尾期には他の犬が近寄ることを警戒し、玄関の格子戸の中に閉じ込めておく。
ところが、コロは処女でなく、すでに千葉で妊娠していたことを知った牧は「啓上、哥路儀妊娠の兆歴然たり。以ての外也。御引取下され度候以上」という葉書を純吉に出す。純吉は「こんな乱暴な葉書を叩きつけて」来たと「火のやうに憤慨」するが、牧の「一本気」が可笑しくもなる。純吉夫妻ははコロを引き取り、産まれた子犬の面倒を見る。
牧たちが結婚する直前、コロは巡査の子供に噛みついたため警察に訴えられ「撲殺さるべき日が」近づく。この結末は鼎の小説とはだいぶ異なっている。しかし、その背景となる事実関係は定かでない。
白秋が見た鼎の性格
鼎と白秋の小説に共通しているのは、コロの妊娠に対する鼎の怒りと落胆と嫌悪である。白秋は「我儘が過ぎるよ。一旦自分の処に貰って置きながら、気に入らぬから返すとはあんまりだ。高が畜生の事じゃないか」と言い、妻も「あんまり身勝手ですわ」と応じている。
そして「あはは、牧だって、いつまで野暮な事を云ふもんかい。子供が生まれたらそりや喜ぶぜ」と言う夫に、「でせうか、でもあの方は潔癖ですからね」と妻は答えている。
鼎にとっては「高が畜生の事」では無く、「野暮な事」でも無かった。コロの「処女たる事を信じて」いたのだ。それは白秋に対する信頼でもあった。鼎は自分と同じように白秋もコロの純潔を守って来たと思い込んでいる。コロがすでに妊娠していた事に気づいていなかった白秋が、「いくら一本気だって、突かっかるのも程がある」と思うのは当然であろう。
しかし、妻のすみ子が言うように鼎は「潔癖」なのだ。白秋は妹の婚約者のこのような性格に一抹の不安を感じている。
白秋はこのような場面を設定している。コロと妹を敢えて比較し、混同させてみなければならないほど、彼は鼎の「我儘」や「一本気」を危惧していたように思える。この作品は、鼎と家子が結婚した三年ほど後に書かれているが、小説のもう一つの意図はそのようなところにあったのかもしれない。