人物紹介

ハリー・K・シゲタ ポートレート

ハリー・K・シゲタ

上田が生んだ
国際的商業写真家

Harry K Shigeta

1887 - 1963

長野県上田市原町(旧上田町)の生まれ。本名:重田欣二。
15歳でアメリカに渡り、美術学校で美術を広く学びながら、写真技術を習得。
シカゴにて商業写真家として大きく成功を収めたほか、芸術写真の分野でも国際的に評価された。

年譜

1887
小県郡上田町(現・上田市)の原町に生まれる。
1902
旧制上田中学校(現長野県上田高等学校)を中退し渡米。親戚を頼りシアトルへ向かう。
1903
セントポール美術研究所に入学。幅広く美術を学ぶ。
1910
ロサンゼルスで肖像写真家となる。修整技術を学ぶ。
1916
修整家の同僚で、静岡県掛川出身の内藤信(のぶ)と結婚。
1924
シカゴ最大手のモフェットスタジオで修整家として働く。後に商業写真部門の責任者となる。
1930
シカゴにて「シゲタ・ライトスタジオ」を設立する。
1934
宝飾店ミキモトの広告として《真珠と人魚》を制作。
1940
戦争を風刺するフォトカリカチュア作品を発表。
1941
太平洋戦争により敵国人となり外出制限を受ける。
1948
イギリスの国際写真コンペディションに出品した《渦巻》が芸術写真部門の第1位を受賞する。
1949
アメリカ写真協会名誉会員の称号を授与される。
1954
アメリカ国籍を取得。
1958
スタジオを後進に譲りロサンゼルスに移住、引退する。
1963
4月21日死去。享年75歳。

渡米

ハリー・K・シゲタ(日本名重田欣二)は1887(明治20)年7月5日長野県上田市原町に生まれました。父・助太郎は上田銀行に勤め、母・てふは書店兼駄菓子屋を営む比較的裕福な家庭で育ったといわれています。

1902(明治35)年、旧制上田中学校(現・長野県上田高等学校)に通っていた15歳で中学校を中退し渡米を決意。先に渡米していた叔父の柳町森太郎を頼りシアトルへと向かいます。

渡米後アメリカ社会になじもうとハリー・K(キンジ)・シゲタと名乗るようになります。英語の習得にも力を入れ、後年には“アメリカ人よりも流暢に英語を話す”とまで言われるようになっています。

西洋美術・カメラとの出合い

シゲタの渡米の目的は西洋美術を学ぶことでした。1903(明治36)年、画家を目指し、ミネソタのセントポール美術研究所に入学すると、デッサンや絵画、版画に工芸と幅広く美術を学んでいきます。彼がカメラと出合ったのは、この美術学校時代でした。

シゲタは描画力こそ高かったものの遅筆という欠点があり、特にデッサンでは授業内に仕上げることができないなど苦労をしていました。そんな彼を助けたのがカメラでした。「カメラでモデルを撮影すればじっくりと描くことができる」そう思いついたシゲタは、早速カメラを購入しデッサンに使用したそうです。試行錯誤を繰り返すうち、次第にカメラのほうに興味が移り、学校を卒業すると、彼は写真家としての道を歩み始めます。

写真家への転身

1910(明治43)年、シゲタはロサンゼルスに移り肖像写真の仕事を始めます。カメラの普及によって写真文化が急速に広まったアメリカでは、自分の写真を飾ったり、見合い写真に使ったりと肖像写真の需要が高まっていました。そこで必要とされたのが顔や容姿を整える写真の修整技術です。

当時はすべてが手作業ですから修整には繊細で高度な技術が求められました。手先が器用だったシゲタはこの修整技術を徐々に自分のものにしていきます。やがて撮影や修整技術の腕が認められていき、ついにはハリウッドスターの宣材写真を依頼されるまでになっています。

芸術写真

シゲタはなぜカメラの魅力に取りつかれたのでしょうか。彼はこう話します。 「画家はある景色を描く場合に、何かを省略する。もし樹が気に入らない処に立っていれば、画家にはそれを別の場所に植え直す自由がある。これらのことをカメラは全然することができない。」

もともと画家を目指していたシゲタは、現実をそのまま写すカメラの“不自由さ”に不満を抱いていたのです。この不満に対する解決の糸口となったのが、写真の修整技術でした。当時、肖像写真家として写真修整を得意としていたシゲタは、この修整技術を研究し、「写真を絵画のように自由自在に描く」ことを追求するようになります。そしてそれは、写真表現そのものに転じていきます。

20世紀初頭に起こった写真を絵画のように表現する動き「ピクトリアリズム」。シゲタはこの影響を受け、1920(大正9)年頃にモデルを使った“自然の中でのヌード撮影”を試みます。“美の手本”と称された《砂丘》、一幅の掛け軸のような《暮色》などはいずれもこのころに制作されています。

後年、シゲタが表現の追求の果てに制作した《干潮》は、現実とも幻想ともつかないその狭間の世界を巧みに表し、自身も最高傑作と称しています。
考え抜かれた構図やモノクロ写真ならではの濃淡表現など、画家を目指していたからこそ生み出される彼独特の芸術表現は、後の商業写真での活躍に生かされてアメリカ社会を魅了していくことになるのです。

商業写真

ロサンゼルスで活躍していたシゲタですが、サンフランシスコで起こった日系人の排斥運動によって活動に限界を感じ、新天地を求め1924(大正13)年にシカゴに移ります。ここで、シゲタはその腕を買われ、大手写真スタジオ「モフェット」の修整写真部門で雇われるとその頭角を現し、やがて商業写真部門の責任者にまで上りつめます。

当時、シカゴはアメリカ第2の都市で、大量の商品が流通する商業都市として栄えており、商品を伝える広告や宣伝に対する写真の重要性が求められつつありました。シゲタはここで、世界一の百貨店として名高いシカゴの「マーシャルフィールズ」の《ドミノ・パイ》などの様々な広告写真を手掛けていきます。しかし、1929(昭和4)年の世界恐慌によってスタジオの経営が傾き、商業写真部門を買い取る形でシゲタはモフェットを離れることになります。そこで彼は、カメラ仲間であったジョージ・P・ライトと共に、1930(昭和5)年、自らのスタジオ「シゲタ・ライトスタジオ」を設立します。

商業写真の専門スタジオとして本格的に乗り出すと、現実をとらえつつも幻想的な表現を含ませる彼独特の写真に評判が高まり、瞬く間にアメリカ有数の写真スタジオに成長していきます。靴の老舗ブランドとして知られるフローシャイムの《コマーシャル用写真(Flosheim Shose)》、コダック社から新製品のテストを依頼されて制作した《トルソー》を手掛けたほか、1934(昭和9)年には、アメリカに進出していた日本の宝飾店「御木本真珠店(現・ミキモト)」の依頼を受け《真珠と人魚》を制作。裸婦、真珠、そして水族館の3枚の写真が合成された本作は御木本真珠店のカタログを飾ったほか、カメラ雑誌などでたびたびシゲタの代表作として取り上げられています。

複雑な光の加減を調整し、ネガを丹念に修整し、気の遠くなるような作業を繰り返しながら一枚の写真を作り上げていく。現代の技術であれば造作もないことですが、デジタルが存在しない半世紀以上前の世界では、斬新な表現として受け入れられていき、シゲタはやがてアメリカを代表する写真家の一人になっていったのです。

太平洋戦争

1941(昭和16)年、太平洋戦争の勃発し、敵国人となってしまったシゲタはスタジオの所有権を手放さざるを得ず、写真業務から離れるという苦渋の決断をします。さらに、追い打ちをかけるように日本人や日系人に対して強制収容が始まり、シゲタは自宅に軟禁状態になってしまいます。

ここで動いたのがシゲタのビジネスパートナーやライトをはじめとするスタジオのスタッフ、多くのカメラ仲間たちでした。シゲタの拘束を解くよう嘆願活動を展開したのです。これには、シゲタの技術力もさることながら、彼の人柄が強く影響したといわれています。アメリカで生きる日本人として逆境の方が多かったであろうシゲタ。しかし、誰に対しても紳士的にふるまい、驕ることも腹を立てることも悪口を言うことも一切なく、分け隔てなく接するその姿を見てきた仲間たちやビジネスパートナーにとって、戦争という理不尽な出来事によって翻弄される彼の姿を黙ってみていることはできなかったのでしょう。

シゲタは敵となる人間ではない、彼がいなければ商業写真事業は成り立たない―。そんな訴えは司法を動かし、シゲタは制限付きながら再び広告写真の仕事に就くことを許されました。

国際写真コンペティション受賞

アメリカで活躍を続けるシゲタ。そんな彼の活躍がついに日本に届く出来事が起こります。1948(昭和23)年、イギリスヨークシャー州の有力新聞社ヨークシャー・イブニング・ニュース主催の国際写真コンペティションにシゲタは《渦巻》を出品し、世界各国から集まった作品4,800余点の中から、審査員の満場一致で芸術写真部門の第1位を獲得します。この受賞は日本でも新聞各紙が取り上げ、シゲタの名が知れ渡るきっかけになりました。

渡米して40余年、すでにアメリカで一流の商業写真家として名を連ねていたシゲタですが、ようやく日本でもその業績が知られることとなったのです。 また、1950(昭和25)年、小西六写真工業(現・コニカミノルタ)の西村龍介氏がシカゴを訪れ、シゲタと交友を持ったことがきっかけとなり、翌1951(昭和26)年のアサヒカメラ4月号の《ストロベリー・パイ》を皮切りに、何号にも渡ってシゲタの作品がアサヒカメラの表紙を飾り、特集も組まれます。

この年の秋には、シゲタが送った作品数十点をもとに、アサヒカメラ主催による「ハリー・K・シゲタ写真個人展」が、東京や大阪をはじめとする日本各地で開催され、世界を舞台に活躍する日本人写真家として知られていたシゲタの作品を一目見ようと、写真展には連日多くの人々が詰めかけ、賑わいをみせたといいます。

「私の使命はカメラによって貢献すること」

シゲタは後進の育成にも尽力しています。自分が研究し見つけた技法やアイディアは、惜しむことなく多くの写真家に伝えていきました。この活動は当時のアメリカ社会でも絶賛されています。 「私の使命はカメラによって貢献すること」シゲタはこう言っています。自分を受け入れてくれたアメリカに、自らの持つカメラの技術でその恩返しをしようと思ったのでしょう。

シゲタが活躍した時代、アメリカではカメラ人口が急速に増えていました。 そこでシゲタは、カメラの芸術性が向上すれば市民全体の文化も向上するのではないか、と考えます。積極的に講演会などを開催して自分で研究し発見したことを多くの写真家に伝えようとしました。 時には、自らのスタジオを研究の場として開放することさえあったそうです。

ある新聞の取材で彼はこう答えています。「私がすでに見つけたことを改めて発見しようと余計な時間を割くことはない。私が研究に費やした時間は、次の研究者のための時間の節約になる。」 ですが、商業写真家である彼にとって、撮影技術やその技法を公開することは、自分の手の内を明かしてしまうことになります。なぜ、そんなことまでしたのでしょうか。

「写真をうまくとるということは6か月もしたら誰でもできる。」そして、「ただ人のつくったものを見てマネするのでなく、自分のものからオリジナルなものを考える」ことこそが大切だと、シゲタは語っています。

1958(昭和33)年、スタジオを後進に譲り引退。ロサンゼルスに移住し余生を過ごしていたシゲタですが、1963(昭和38)年4月21日に75年の生涯を閉じます。多忙な彼は、ついに故郷上田に帰ることはかないませんでした。しかし、彼の作品は故郷に戻り当館に収蔵されています。海を越えて活躍した彼の功績は、時を経て、この上田の地に伝えられているのです。

このページのトップへ