シゲタは後進の育成にも尽力しています。自分が研究し見つけた技法やアイディアは、惜しむことなく多くの写真家に伝えていきました。この活動は当時のアメリカ社会でも絶賛されています。
「私の使命はカメラによって貢献すること」シゲタはこう言っています。自分を受け入れてくれたアメリカに、自らの持つカメラの技術でその恩返しをしようと思ったのでしょう。
シゲタが活躍した時代、アメリカではカメラ人口が急速に増えていました。
そこでシゲタは、カメラの芸術性が向上すれば市民全体の文化も向上するのではないか、と考えます。積極的に講演会などを開催して自分で研究し発見したことを多くの写真家に伝えようとしました。
時には、自らのスタジオを研究の場として開放することさえあったそうです。
ある新聞の取材で彼はこう答えています。「私がすでに見つけたことを改めて発見しようと余計な時間を割くことはない。私が研究に費やした時間は、次の研究者のための時間の節約になる。」
ですが、商業写真家である彼にとって、撮影技術やその技法を公開することは、自分の手の内を明かしてしまうことになります。なぜ、そんなことまでしたのでしょうか。
「写真をうまくとるということは6か月もしたら誰でもできる。」そして、「ただ人のつくったものを見てマネするのでなく、自分のものからオリジナルなものを考える」ことこそが大切だと、シゲタは語っています。
1958(昭和33)年、スタジオを後進に譲り引退。ロサンゼルスに移住し余生を過ごしていたシゲタですが、1963(昭和38)年4月21日に75年の生涯を閉じます。多忙な彼は、ついに故郷上田に帰ることはかないませんでした。しかし、彼の作品は故郷に戻り当館に収蔵されています。海を越えて活躍した彼の功績は、時を経て、この上田の地に伝えられているのです。