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六か条の注目すべき起請文

六か条のものであっても「注目される誓約事項を盛り込んだ起請文」(『信玄武将の起請文』)が三通あります。

一つ目は、室賀経秀等連署の起請文です。

室賀氏の惣領である室賀信俊は、別に六か条の基本的な内容の起請文を出しています。

第六条に「敵より誘いのあったことを山城守が隠していたらすぐにそのことを申し上げます」という意味のことが書かれています。惣領である(山城守)信俊を一族が監視するということですが、室賀氏は武田家に降る前に村上氏と関係が深かったため、宿敵上杉謙信と組している村上義清からの誘いを武田方では警戒していたものと思われます。室賀一族を、相互監視によって上杉方からの調略ちょうりゃく懐柔かいじゅうを警戒しています。信玄は、室賀氏を相当に警戒していたのか麻績清長の起請文(八月八日付)では、この室賀氏と「入魂じっこん」にしないとも起請させています。

続いて桑原康盛等連署起請文です。長野県立図書館蔵の丸山史料には「海野被官」という注がついています(『信玄武将の起請文』)。一族の惣領である海野幸貞も別に起請文を提出しています。この起請文の第六条では、「万一、三河守(海野幸貞)が武田信玄様に逆心を持ったなら精一杯意見をし、聞き入れなかったら三河守と縁を切って、私たちは一心に信玄様をお守り申し上げて忠節を尽くします」という意味になっています。海野被官衆が、自分たちの統率者である幸貞に対してよりも、信玄への忠節をより強く求められているところに特色があります(『信玄武将の起請文』)。一族の惣領である幸貞には、「信玄に対する悪い意見や臆病な意見には同意しない」と誓わせ、その配下の者には、惣領よりも信玄に忠節を誓わせ、ここでも相互監視の方法を用いています。

最後は岩下幸実等連署の起請文です。懸紙(包紙)に書かれている岩下衆は、「信州の筑北地方に進出した岩下(海野)下野守の配下の一族」(『信玄武将の起請文』)と思われます。起請文の第六条に「下野守親子が武田信玄様に対し奉り、逆心を持ったなら、精一杯意見を致しますが、もし聞き入れられなかったら、下野守親子と縁を切って、信玄様に忠節を尽くします。」というように桑原康盛等連署起請文と同じ内容が入っています。

これら三通は、単に配下の「家中の者」でなく、惣領との間で相互監視によって武士団の謀反を防ごうとした一端が現われています。また、起請文は信濃・上野・甲州の三国の武将に広く提出させていますが、この三通は、地域的にも信濃国で支配下においた地域と上杉方との争いの最前線あるいは戦略的に重要な位置にある武将のものであり、信玄の強い警戒心を見ることができます。事実、この地域は信玄が天文22年(1553)村上氏の葛尾城を責める際に、松本盆地から苅谷原・会田・麻績・更級の盆地に出て、周囲の諸将を屈服させて城の自落を誘った経過があります。

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人物解説

室賀一族起請文へ移動

小県郡室賀(上田市)を本領としていました。経秀・正吉・吉久は、惣領信俊の弟で、正吉は小島を領有、吉久は舞田を領有していました。堀田之吉は親族と見られます。

桑原康盛起請文へ移動

 

海野幸貞起請文へ移動

『大塔物語』に「海野宮内小輔幸義 その舎弟中村平八郎、会田岩下」とある海野氏は、この系を引く一族で幸貞は、会田(松本市 東筑摩郡旧四賀村)に本拠を持ち、筑北地方(麻績村・旧坂井村・旧坂北村・旧本城村・旧四賀村など)に勢力を張った岩下海野氏の統率者です。この地域では麻績氏も土豪として支配地域をもっていました。筑北地方は、筑摩・安曇から川中島地方への出口にあたり、上杉氏の勢力との接触地域で、川中島における第一回の戦いの時には、青柳(筑北村 旧坂井村)・麻績(麻績村)・荒砥(千曲市 旧上山田町)の各城の争奪戦がありました。

岩下幸実起請文へ移動

 

参考資料:信濃史料、信玄武将の起請文、上田市誌「歴史編・文化財編」から引用しています。