永禄9年8月に記された起請文が三通ありますが、この三通は三者三様の誓約内容が盛込まれています。
『信玄武将の起請文』では長坂昌国 のものは第三条の「御気色悪人并御家中之大身江不可入魂之事」という一項、三枝昌貞 のものも第三条の「従何人以賄賂・同知行等之所得相頼共、奉対 御屋刑(形)様不可企逆心候事」という一項、武藤常昭 のものでは、第一条の「自今以後、今井次郎左衛門尉与入魂致間敷候、内陣屋・甲州宿出入仕間敷候」、第二条の「向後朋友之調并徒党立仕間敷事」を注目される誓約内容としています。
特に武藤常昭の起請文については、武藤三河守(常昭)と今井信左衛門(信衛)との関係について言及し、時代がやや
この三通には、他の起請文に第一条で書かれている「此以前奉捧数通之誓詞…」が無いことも指摘しています。
また、この三通は甲州の武将のものであることに共通点があります。
永禄10年にも三か条の七通があります。
熊井土重満 等連署・松本吉久 等連署・市川景吉 等連署・黒澤重家 等連署・山口高清 等連署のものは、第一条の「以前に提出した起請文について、これからも背かないこと」、第五条の「
甲州の北巨摩郡
武藤氏は甲州の旧族で、信玄は一族である武藤家を母 大井氏の男子に継がせた。その一人が新(神)右衛門常昭である。武藤常昭は、今福浄閑らと公事奉行をつとめている。なお、真田昌幸は、真田の家督を継ぐ前に武藤家を継いで武藤喜兵衛と称していた。
連署した人々は上州の小幡氏の一族であろう。武田氏の中でも小幡氏を通じてかなり重要な位置を占めていたと思われる。『甲陽軍鑑』の小幡上総守先衆の中に、「覚之衆」として熊井土の姓が出てくる。
松本氏は上州の武士であろうが、来歴等は不明である。起請文の宛所は熊井土対馬守となっているが、熊井土重満である。宛所はほとんど甲州の武将であるが、上州の武将が宛所となっているのは、唯一熊井土氏のみである。
差出人として連署しているのは上州甘楽郡南牧地方の地侍。
提出した起請文の懸紙のウハ書に「山中衆」とある。神々の名前を書いてある神文を検討するとこの「山中衆」と呼ばれる武士団は、上州の地侍かと思われる。
上州多野郡長根(吉井町)一帯を本拠とする武士団「
提出した起請文は10名の連署となっている。地域的な関連性を見出すことは困難だが、宛所が上州の熊井土氏であること、懸紙のウハ書きに連判とあるのは上州関係に多いこと、「誓詞」と書かれているものは上州関係のみ、神文に「御披露」とあるのは上州関係におおいことなどから上州の地侍と考えられる。
起請文に連署した者は、何れも「光」の字があり、同族と見られる。懸紙に「青柳被官」と書いてあることから青柳氏の配下にいたと思われる。青柳氏は、筑北地方の青柳(東筑摩郡旧坂北村/現筑北村)の地侍で小笠原長時の家臣であったが家臣であったが天文年間に武田氏に降ったという。