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なぜ、生島足島神社にこれだけの古文書が存在するのか

信玄配下の武将たちが起請文を奉じた生島足島神社は、延喜式内社として、信濃では諏訪大社につぐ古社で、戦国時代には下之郷上下宮・下之郷上下大明神・下之郷諏訪明神・下之郷諏訪法性大明神などと呼ばれ、諏訪神の信仰が中心でした。

この下之郷諏訪明神を、信玄が重視したのには、いくつかの理由が考えられています。先ず古来よりの大社であったこと。軍神である諏訪神をまつっており、信玄が特に諏訪神を信仰し、特別の加護を願っていたこと。また、上杉謙信との対決に先立って、信玄は塩田城を攻略したあと、この城の城下町は、物資集散にも役立っていたと考えられること。また、この塩田地方からは、室賀峠を超えて、北信濃への道が通じていたほか、砂原峠を越えて、甲州・上州へも通じ、兵馬を動かすにも都合のいい位置であったこと等、信仰上・軍事上・経済上の理由から、越後の上杉方にも近い塩田平にある下之郷諏訪明神に武将達を集め、起請文を差し出させ、一括して奉納したものと考えられます。

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参考資料:信濃史料、信玄武将の起請文、上田市誌「歴史編・文化財編」から引用しています。