山本鼎版画大賞展

第4回山本鼎版画大賞展

ごあいさつ

版画運動の世界的拠点へ

第4回山本鼎版画大賞展実行委員長 小宮山量平

 かえりみれば1882(明治15)年に生誕し1946(昭和21)年に64歳にして逝去した山本鼎の名が、その生前のみずみずしさを少しも喪うことなく、今もなお、その生涯の芸術的生活の大半を過ごした”ふるさと”の地に生彩を放ちつづけているということは、誠に稀有のことであります。その有様はあたかも、小さなひと粒の種子が人知れず地上に吹きよせられ、いつしか大地の温もりを存分に吸収し、ふと気がつけば、幾多の風雪ごとにその成長ぶりを験されつつ、今や大地にその根を張りめぐらせた大樹の相を示しつつあるのにも例えられましょう。

 もちろん、ようやくトリエンナーレの第4回目を迎え得たばかりの山本鼎版画大賞展の歩みをかえりみて、かの老松老杉の巨木に比べるわけではありません、が、どうやら幾多の嵐にも耐えうる若木のたのもしさを期待するほどには達し得たかと、自負することは許されましょうか。それと言うのも、この大賞展の第1回以来、変わりもなくこの若木の行くすえを見守りつづけて下さった審査員諸氏の指導力の冴えが深まるのにつれて、応募者みなさんの創造性の高まりが、秀れた合奏を示すこととなったからに他なりません。このような合奏の結晶が感得される状況が展開するのにつれて、私たちは改めて、”そもそも山本鼎の芸術的歩みとは?”と問いなおさずにはいられません。

 かえりみれば、山本鼎の生涯には現代芸術にとって、巨きな変革と脱皮とを求める社会的革命の鋭い衝撃がもたらされております。その衝撃をまともに受容しつつ、あの第一次世界大戦がもたらしたアバンギャルドの大波も、また、あのロシア革命のもたらした民衆的芸術の津波も、山本鼎は、極めて楽天的に受けとめつつ、あたかも自然界の”羽化”の如く脱皮を遂げてきたものです。とりわけ、その自由画教育運動や農民美術の指導には、やがて訪れる軍国主義への傾斜への抵抗力を伏在させるおおらかさが潜んでおりました。私自身は当時の小学生として、山本鼎の楽天的なおおらかさが”信州教育”や”赤い鳥”文化にまで浸透していた指導力を生涯の宝物として、今もなつかしまずにはいられません。

 今やわが祖国のみならず全世界が、時ならぬ危機の様相を呈しております。関東大震火災に次ぐ1929年の大恐慌の津波は、蚕糸王国信州を薙ぎ倒し、私なども一家離散の憂き目をみて東京へと流浪の身となりました。恐らく山本鼎在りせば”あの頃とそっくりだ”と眩くに違いありません。日本だけではなく、世界がそのような危機へと突入しつつあるのでしょう。こうした津波にも似た危機に際して、わが山本鼎ならば、今こそ世界に向って、現代芸術の脱皮の時至れりとばかりに、おおらかな”羽化”の方途を指差すに違いありません。この芸術家の”ふるさと”から、今こそ世界に向って新しい版画運動を発信する時が来ていると思うのです。皆さんの一層の精進を祈って第4回展への格別な”ごあいさつ”送る次第です。