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国分寺

概要

信濃国分寺

信濃国分寺

奈良時代に建てられた信濃国分寺が衰(おとろ)えてしまうと、この地方の民衆によって、一段上の平地に新しく寺が建てられ、国分寺の伝統を継ぐことになりました。これが現在の国分寺です。

それは鎌倉時代の初め頃かと推定されますが、源頼朝(みなもとのよりとも)がその再建に力を尽したという伝承があります。

お釈迦(しゃか)様だった本尊もお薬師様となり民衆の寺として生まれかわり、今日に至っています。毎月8日には金光明経 (こんこうみょうきょう)の読経(どきょう)がありますので八日堂(ようかどう)ともいわれます。

八日堂縁日図

現国分寺に伝わる昔の八日堂縁日のようすを描いた珍しい絵です。

江戸時代中ごろのものかと思われますが、蘇民将来符(そみんしょうらいふ)、宝槌(たからづち)、包丁(ほうちょう)、釘(くぎ)ぬき、まないた、山鳥、兎(うさぎ)、干鰤(ほしぶり)など日用品や食料品がならび、武士をはじめ、頬(ほう)かむりの男、きせるをもつ男、易者(えきしゃ)、乞食(こじき)にいたるまで民衆のありさまがよく描かれています。

全体で363人の人が数えられます。 八日堂といわれた信濃国分寺がどのように人々から信仰されたかよく知ることができます。

八日堂縁日図

八日堂縁日図

八日堂縁日

信濃国分寺本堂で1月7日の夜に護摩の法が修されます。

護摩は薬師如来の知恵の火で、もろもろの業(ごう)を焼き、功徳を衆生(しゅじょう)に回向(えこう)すると信じられており、多くの参詣者が集まります。その人数は毎年10万人ほどにもなり「蘇民将来」のお守り、福だるま、福あめ、などを求める人々で国分寺周辺は非常に混雑します。

縁日は、7日の夜から8日にかけてですが、8日は国土の安穏と衆生の幸福を祈願する読経が厳粛に行われます。

蘇民将来符
<市指定民俗文化財>

概要

蘇民将来符

蘇民将来符

蘇民信仰(そみんしんこう)は中央アジアから伝来したといわれ、奈良時代以降に広く流布(るふ)した民俗信仰で、全国各地に残存しています。

信濃国分寺の蘇民将来符は室町時代以降から作られたとみられ、除災招福を祈って門戸にかけられます。

信濃国分寺資料館では毎年1月に、全国各地の蘇民将来符を展示した特別展を開催し、その図録「蘇民将来符」も頒布しています。

蘇民将来符製作風景

信濃国分寺三重塔
<重要文化財>

概要

信濃国分寺三重塔

信濃国分寺三重塔

室町時代中期に建てられたと推定される、軒反(のきぞ)りの強いすっきりした美しさをもつ、柿(こけら)を模した銅板葺の塔です。

塔の外部は和様・禅宗様の折衷(せつちゅう)様式ですが、内部は四天柱上の台輪、内・外陣の禅宗様詰組など純禅宗様です。

棟札が5枚あり、
「貞享乙丑天三月二日」
「享保十一丙午天三月二十八日」
「修覆延享五年辰三月七日」
「葺替安永七戊戍天閨七月三日」
「修覆文政二己卯歳閏四月吉祥日」
の記があり、これらから塔の修理が行なわれてきたことがよくわかります。

牛頭天王之祭文

概要

牛頭天王之祭文

牛頭天王之祭文

牛頭天王之祭文(ごずてんのうのさいもん)は蘇民縁起(そみんえんぎ)について書かれたもので、上小地方で二番目に古い文書です。

文明12年(1480)11月の書。 内容は、蘇民将来の子孫が災厄を免れたというもので、とくに、治病を重要視している点に特色があります。