真田昌幸
 初代上田城主。幸隆の3男で、信之や信繁(幸村)の父である。
 若い時から、武田信玄の側近として仕え、信玄の信任が厚く、武田家ゆかりの武藤姓を与えられ、武藤喜兵衛とも名乗っていた。
 しかし、天正3年(1575)長篠の戦で、兄二人が戦死したため、はからずも真田家を相続する。そして、主に上野吾妻の経営防備を担当した。天正8年には、沼田城を攻略し、北上州一帯をその勢力下におくことに成功している。
 天正10年(1582)3月、主家武田氏が滅亡し、その旧領は織田信長に占領される。ついでその6月には信長も本能寺の変により倒れ、信濃は、周辺の徳川・上杉・北条等有力諸大名の草刈り場と化す。
 このような大変動のなか、昌幸はよく真田家を守り、周辺諸強豪の対立を利用しつつ、独自勢力の拡張をはかった。そして、小県地方一円の統一を展望しつつ、上田築城を開始するのである。
真田昌幸着用具足 / 真田昌幸画像

武藤喜兵衛
昌幸、真田家相続
沼田城
新府城
武田氏の滅亡…昌幸、北条氏に臣属打診
織田信長の支配
昌幸、北条氏に帰属
昌幸、徳川家康に臣属(天正10年9月)
滝沢家文書
昌幸、小県統一へ