第1章 
時代の変革と上田城から
上田城跡公園へ

今から約150年前の明治維新の頃、全国には200弱の「城」があったといいます。版籍奉還、廃藩置県と社会の仕組みが変革するなかで、明治6年(1873)の「廃城令」によって江戸時代の象徴であった「城」は「廃城」となっていきました。では、上田城はどうだったのでしょう。上田城には政府の兵部省により東京鎮台の兵士が駐屯することになり、その後、上田城はその姿を大きく変えていくことになります。

1-1.
上田城の払下げと櫓の解体

この写真は明治初期の上田城の姿を写した貴重な1枚です。写真をよく見ると現在の南櫓の位置にあるはずの櫓が既にありません。

上田城では明治10年頃までには土地や建物、樹木までもが入札により売却。その後、櫓(西櫓を除く)や櫓門、石垣などは次々に解体され、城外に運び出されていくことになります。

明治10年頃 本丸東虎口

明治10年頃 本丸東虎口〈上田市立博物館所蔵〉

1-2.
松平神社と本丸の公園化

払下げが一段落した明治12年(1879)、本丸に松平家旧臣が「松平神社」を創建。この境内地を寄付した丸山平八郎直義は、本丸の大部分を購入した上田の豪商です。

丸山は明治18年にも本丸上の段も松平神社に寄付。これが契機となり、明治28年頃までに本丸は公園としての体裁が整いました。

絵葉書「(上田名勝)上田公園松平神社」 明治40年頃

絵葉書「(上田名勝)上田公園松平神社」 明治40年頃〈個人蔵〉

1-3.
監獄があった上田城

本丸の公園化が進む一方、二の丸は払下げ後に大部分が桑畑となり、明治18年(1885)に東虎口に上田監獄署が、大正6年(1917)にはコレラの流行により東北隅に伝染病院が設けられるなど、本丸とは大きく景観が異なっていました。

上田監獄 明治26年2月

上田監獄 明治26年2月〈上田市立博物館所蔵〉

1-4.
公会堂の建設と二の丸の整備

大正12年(1923)に二の丸の東側に上田市公会堂が完成します。これが契機で二の丸も公園化が進んでいきます。

上田市は土地の公有化を積極的に行い、昭和3年(1928)に百間堀を利用して陸上競技場・野球場を設置し、監獄署の跡地にはテニスコートと児童遊園地を整備しました。

公会堂と監獄移転後の更地

公会堂と監獄移転後の更地(手前)〈上田市立博物館所蔵〉

1-5.
お堀に鉄道が走っていた上田城

二の丸堀を利用して、昭和2年(1927)に伊勢山駅まで上田温泉電軌北東線が開通。翌年には真田駅・傍陽駅まで延伸されました。

お堀の中を電車が通る。その独特の景観は、当時「蚕都上田」と呼ばれた都市の発展を象徴するものでした。

上田城お堀と鉄道

二の丸堀に架けられた鉄道橋「二の丸橋」〈上田市立博物館所蔵〉

1-6.
真田櫓の改修と徴古館の開館

本丸内に唯一残った「西櫓」は仙石忠政が建てたものです。大正期になると上田の人たちは「真田櫓」と呼んでいました。

その櫓は昭和4年(1929)に徴古館(現在の博物館)として活用されます。昭和7年(1932)に迎える「上田築城350周年」に向けた整備の一環と考えられ、2階に上がるための階段やガラス窓が設けられ、その姿を大きく変えました。

徴古館(昭和4年7月1日開設)

徴古館(昭和4年7月1日開設)〈上田市立博物館所蔵〉

第2章 
南北櫓の移築復元

明治11年頃までに、上田城内から姿を消していった6棟の櫓。その行先は未だわからない部分も多くありますが、うち2棟は遊郭の貸座敷で使われ、その後、再び上田城内に戻ってきます。その波乱万丈の歴史と、上田城内への再移築に関わった人たちの軌跡を追いましょう。

2-1.
遊郭に移築された2棟の櫓

民間に払下げられた上田城の櫓のうち2棟は、明治11年(1878)に営業が許可された上田遊郭に移築され貸座敷になりました。

写真を見ると2棟の櫓の1階・2階部分がそれぞれつながれていることもわかります。

上田遊郭(金秋楼・萬豊楼)

上田遊郭に移築された櫓(金秋楼・萬豊楼)

2-2.
上田城阯保存会の結成

昭和5年(1930)頃に貸座敷が廃業になると、2棟の櫓は市内の建築業者に売られ、さらに東京の料亭に転売されます。すると、市民の間から「櫓を買い戻して城跡に復元しよう」という声が上がり、昭和17年(1942)に「上田城阯保存会」が結成。直ちに櫓を買い戻しました。

上田城阯保存会趣意書 昭和18年6月28日

上田城阯保存会趣意書 昭和18年6月28日〈上田市立博物館所蔵〉

2-3.
第二次世界大戦時の櫓移築工事

昭和18年(1943)6月、貸座敷となった櫓の解体が始まり、城跡への移築工事が行われます。その費用は当時の金額で約2万円と見積もられ、全て市民からの寄附金で賄うことになりました。

しかし、工事が本格的に動き出した矢先、太平洋戦争の戦況悪化などにより、建築工事は中断してしまいます。

櫓移築工事 昭和19年

櫓移築工事 昭和19年

2-4.
北櫓・南櫓の完成

一度は中断となった櫓の建築工事は、太平洋戦争が終焉すると上田城阯保存会が再始動し、戦後の混乱の中で移築工事は急ピッチで進められます。敗戦からの復興を願う市民の思いが後を押したのもあったでしょう。

昭和24年6月、保存会による移築復元工事はしゅん工し、完成した櫓2棟は上田市に寄贈されました。

櫓移築工事しゅん工式 昭和24年

櫓移築工事しゅん工式 昭和24年〈上田市立博物館所蔵〉

第3章 
東虎口櫓門の復元

南北櫓の移築復元から40余年。当時、声高に叫ばれた「地方創生」という国の地域振興施策から生まれ、後に「平成の城復元ブーム」と呼ばれるこの時代、上田城でも平成2年に「史跡上田城跡整備基本計画」を策定し城跡の発掘調査等が進められます。そして、今や上田城の顔にもなる東虎口櫓門が復元されます。

3-1.
東虎口櫓門の復元に向けた取組

東虎口櫓門の復元に向けては、国史跡に歴史的建物を復元するための文化庁の許可が必要で、かつての櫓門を忠実に再現するための調査成果などが求められます。

復元に向けた発掘調査の結果、櫓門の礎石の位置が判明。明治10年頃に撮影された古写真の存在が決定打となり、文化庁から「復元」が許可されます。

3-2.
本丸東虎口櫓門の復元

復元工事は平成4~5年度にかけて行われ、事業費は約3億4千万円。北櫓、南櫓と合わせて、上田市・上田城のシンボルになっています。

復元した東虎口櫓門

復元した東虎口櫓門

3-3.
発掘調査で発見された櫓・土塀の痕跡

本丸の発掘調査は平成5~7年度に行われ、江戸時代に櫓があった本丸土塁の北西の隅に1箇所、北東の隅に2箇所や土塀等の発掘調査等を行いました。

今後復元を目指す土塁の上の3棟の櫓の位置や大きさ、向きなどの基礎資料につながる事実が判明しました。

北東櫓跡 発掘調査

北東櫓跡 発掘調査

3-4.
上田・城下町活性会の7つ櫓復元運動

平成の時代においても、上田城の復元に向けた機運醸成のけん引役は市民の手によるものでした。「上田・城下町活性会」が組織され、城の復元のための募金活動を展開。

平成30年にも「櫓の復元のために」ということで、上田市に100万円を寄贈し、現在も活動を続けています。

上田・城下町活性会 チラシ

上田・城下町活性会 チラシ

3-5.
観光名所「上田城」

平成6年に東虎口櫓門が復元され、櫓や櫓門と桜や紅葉が調和した上田城は今まで以上に多くの観光客が訪れます。

さらに平成28年にNHK大河ドラマ「真田丸」が放送されると、城内にあった旧市民会館の解体工事等は延期され、大河ドラマ館として多くの来場者がその歴史を体感することになります。

上田城と桜 平成28年

上田城と桜 平成28年

エピローグ 
7つの櫓の復元をめざして

上田城復元プロジェクト 寄付金チラシ

多くの観光客が訪れる上田城。一方で史跡の整備は、二の丸北虎口の石垣が復元整備されたものの、櫓などの復元整備等が進まない状況が続きます。

そんな中、市民のよりどころとなる上田城の復元に向けて「上田城復元の夢を叶える市民の会」が令和5年に立ち上がると、復元の原動力となる精力的な活動が続けられます。

明治から令和へ——時代を超えて受け継がれてきた市民の思いは、今もなお上田城の復元という夢に向かって燃え続けています。7つの櫓と櫓門の復元が実現する日を目指して、取組はこれからも続きます。