プロローグ

明治の廃城から現在まで古写真をもとに歴史を辿ってまいりましたが、写真の技術が日本に導入されて間もない明治初期から上田城や上田の人々、景観を写した古写真が多く存在することは大きな特徴であり、懸賞金事業を始めた理由の1つでもあります。

幕末から明治にかけて、上田では写真師と呼ばれる先駆的な人々が活躍していました。彼らが残した記録は、城郭の復元研究においても重要な手がかりとなっています。また、最後の上田藩主・松平忠礼は、迷信を恐れず、自ら被写体となる「写真好きのお殿様」として知られており、その姿勢が上田における写真文化の発展に寄与したと考えられています。

第1章 
写真好きのお殿様

1-1.
松平忠礼と写真

幕末に西洋からもたらされた写真術ですが、「写ると魂を抜かれる」という迷信がまことしやかに流布され、撮られることを嫌った人も多くいました。

そんな時代、最後の上田藩主松平忠礼は藩に西洋軍制や養蚕製糸、科学技術の導入を進めました。なかでも写真術については積極的に研究していたようで、忠礼を撮影したものもたくさん残っています。藩主を辞し、アメリカに留学した際に撮影したと思われる忠礼の写真も知られています。

忠礼が撮影させた古写真の数々は、当時の江戸や上田の情景を生き生きと伝える貴重な記録として、東京都写真美術館や上田市立博物館になどに所蔵されています。

松平忠礼画像

松平忠礼画像〈上田市立博物館所蔵〉

第2章 
最も有名な上田城の古写真

テーマ1でも取り上げた「明治10年頃の本丸東虎口」の古写真は、上田城の古写真として最もよく知られた一枚です。しかしこの写真には、撮影時期や撮影者、そして写真がたどった旅路など、多くの謎が隠されています。懸賞金事業を通じて寄せられた情報をもとに、その謎に迫ります。

2-1.
撮影時期はいつか、その謎にせまる

テーマ1でも取り上げたこの写真、「明治5年撮影の上田城」と記された情報を多く寄せられました。しかしこの「明治5年」の記載は誤りで、明治6年までは南櫓の位置に櫓が残っていたことが史料から確認できます。

写真に写る建物の配置や状態を丁寧に読み解くと、少なくとも南櫓が解体された後に撮影されたことがわかります。文書資料との照合から、明治10年前後が撮影時期として最も有力と考えられています。

明治10年頃 本丸東虎口

明治10年頃 本丸東虎口〈上田市立博物館所蔵〉

2-2.
海を渡った上田城の古写真

さらにこの写真、海外の複数箇所からも発見されています。当時、横浜を貿易港に蚕都として栄えた上田の蚕種なども多く海外に輸出されていました。

「横浜写真」と呼ばれる外国人向けの記念写真が盛んに制作された時代、上田城の古写真が世界へ渡っていたことは注目に値します。蚕種の輸出とともに、上田の風景を収めた写真もまた海を越えていったのかもしれません。

2-3.
海外にいまだ眠る古写真はあるのか

こうした背景から、海外にも目を向けて資料調査を進めてきました。日伊協会長野さんのご協力のもと、イタリアの機関への調査も実施しています。

いまだ発見されていない古写真が海外に眠っている可能性もあります。世界中に散らばった上田城の記録を掘り起こすことが、復元の根拠資料発見への新たな道を開くかもしれません。

第3章 
写真師の活躍

幕末から明治初期にかけて、上田では複数の写真師が活躍しました。当時の日本でも先進的な撮影技術を持った彼らは、上田城はもとより、上田の人々や風景を記録し続けました。その仕事は、当時の文化・歴史を現代に伝える貴重な遺産となっています。

3-1.
上田藩士 大野木左門
(?~明治10年(1877))

幕末の上田藩士。藩の役人として、写真術のほか、基礎科学の習得に努め、上田の写真師の草分けとなった人です。江戸末期から明治初頭にかけての彼の研究の経過が、残された古文書やガラス湿板等の史料から判明しています。

左門は当時、全国的にも名の知られた写真師だった江戸の「鵜飼玉川(うかい ぎょくせん)」らと交流して技術を磨き、カメラのレンズの設定や現像液・定着液の調合法の開発などに時間を費やすなど、努力の人でした。彼は撮影時にガラス湿板の露光時間を「六、七みゃく」と数えたと記録しており、左門が写真を撮影する際に自分の脈拍で時間を測っていたことが分かります。

写真好きな殿様の下、上田藩で写真術が花開いた下地は、まさに左門が作ったと言えます。

大野木左門(上田市誌 歴史編 掲載)

大野木左門(上田市誌 歴史編 掲載)

3-2.
上田藩史生 田中鼎三
(天保9年(1838)~大正2年(1913))

田中鼎三(たなか ていぞう)は上田藩史生(ししょう)として近代製糸技術の導入等に尽力しました。確実な証拠はありませんが、大野木左門の下で「写真術」を習得した可能性も考えられます。

明治4年(1871)に金山町(北常田)に写真館を開業しますが、同10年頃には廃業し、彼の作品はわずか2~3点が確認されているだけです。その後、上京して書画を学んだと伝わります。同17年頃までに上田を離れて長野県内を転々とし、同23年に中沢村(現在の駒ケ根市)に移り、画家となって「田中亭山」を名乗りました。駒ケ根市の蔵澤寺・東禅庵薬師堂天井絵等の作品を残しています。

76歳で生涯を閉じ、上田市新田の大輪寺境内の墓地に葬られました。写真師としての活動時期を考慮すると、解体前の櫓門と北櫓の写真の撮影者である可能性もあります。

(後列左から)大石信・良義(個人蔵)

田中亭山画「兎図」〈上田市立博物館所蔵〉

3-3.
上田に乾板写真を普及させた写真館「陽明堂大石」
大石良義(嘉永4年(1851)~明治43年(1910))
大石信(?~昭和5年(1930))

大石良義(よしぎ?)は明治8年(1875)に上京し、井上準次郎に写真術を学んだと伝わります。翌年上田に戻り、連歌町に野天式写場を設けて営業を開始しました(当時は屋内では印画紙が感光しなかったため、撮影はほぼ不可能でした)。

現存する彼の写真で最も古い作品は明治10年代のもの。最盛期の明治20~40年頃の作品には「陽明堂」の写真館名がある台紙が用いられました。明治43年没(享年62)。

大石信(まこと)は良義の娘婿となり、写真館を引き継ぎました。本業の傍ら、長野県写真師組合長を務めるなど人望が厚かったことがうかがえます。昭和5年没。親子2代にわたる「陽明堂(陽明館)~大石写真館」は幕を閉じました。

(後列左から)大石信・良義(個人蔵)

(後列左から)大石信・良義(個人蔵)

第4章 
新しい発見

上田城復元の事業の中で新しい発見がありました。そのうちの2つをお伝えします。

4-1
ついに見つけた!!「大石写真館」

かつて連歌町にあった大石良義の写真館「陽明堂(陽明館とも)」。現在、その跡地(原町の上田市ふれあい福祉センターの西側)には、かつて陽明堂があったことを示す面影は失われていますが、今回、懸賞金事業をメディアで紹介していただいたところ、大石良義のご子孫の方からご連絡をいただき、良義と娘婿の信(まこと/大石写真館)について、史料や情報を得ることができました。残念ながら、明治初期の上田城の写真は保管されていませんでしたが、明治時代に写真館「陽明堂 → 陽明館 → 大石写真館」が上田に遺した足跡をたどり、その業績を知ることができました。今回の懸賞金事業の大きな成果のひとつです。

ご子孫とは別の方から市立博物館にご寄贈いただいたこの写真。左下に「信濃国上田連歌町陽明堂大石良義写」とあります。ただ、この写真は複写(写真を写真に撮ってコピーしたもの)であり、直ちに良義がこの写真の撮影者だと断定することは叶いません。明治初期の上田城跡を撮影している可能性がある良義については、今後も調査を進めてまいります。

大石良義が複写した名刺判写真(市立博物館蔵)

大石良義が複写した名刺判写真〈上田市立博物館所蔵〉

4-2
発見!! 最後の藩主・松平忠礼の新史料

戦後、華族制度が廃止され、子爵の身分を失った松平忠礼の孫・忠倫は東京荏原(現在の品川区)から上田に居を移します。

彼には上田に引っ越してから親交を深めた友人がいました。霊泉寺温泉ではその友人と一緒にたびたび湯舟に浸かっていたと聞きます。ふたりはお互いを信頼し、絆を深めていったのでしょう。単身だった忠倫は、亡くなる前に自身が大切にしてきた松平家に関わる写真や古文書を友人に託しました。

そのうちの1枚がこの写真。印画紙が新しいことから、昭和になって忠倫が複写した写真だと思われますが、忠礼を写した新発見の史料です。おそらく原本は明治初年のアメリカ留学当時に撮影したものでしょう。

このように、撮影から150年が経った令和の今になっても、まだまだ私たちが知らない写真が眠っていたのです。上田城の櫓の写真も今後発見される可能性はゼロではありません。懸賞金事業は一区切りとさせていただきましたが、私たちはあきらめません。写真の探求はこれからも続けてまいります。皆さまからの情報が頼りです。引き続きご協力をお願いします。

松平忠礼の新発見写真(個人蔵)

松平忠礼の新発見写真(個人蔵)

エピローグ 
上田城復元資料の懸賞金事業

上田城の払下げ等の史料から、明治11年頃まで城内に残っていた櫓と櫓門があると推察されます。その当時、日本でも先進的な撮影技術を持った上田の写真師たちであれば、城内にあった櫓を写真で記録することも技術的には可能であり、いまだ発見されていない資料が見つかる可能性もあります。

復元の根拠となる資料を探す懸賞金事業をスタートした背景には、こうした写真師の活躍があったからこそです。

明治から令和へ——写真という技術を通じて受け継がれてきた城郭の記憶は、今もなお上田城の復元という夢に向かって光を当て続けています。まだ見ぬ古写真や資料の発見に向けた取組は、これからも続きます。