丸子地区の養蚕業

製糸労働者

器械製糸の導入に伴(ともな)い、丸子にも製糸労働者が出現します。

製糸家は、利益を上げるために、生糸価格の約8割を占める繭の購入費をおさえることと同時に、労働力も安く手に入れようとしました。したがって、初期の労働者の賃金は低く、また、労働時間も一日、13~14時間と長いものでした。さらにこのころの製糸工場は規模が小さく、機械化も充分進められていないこともあって、女子工員の手作業に負うところが大きかったのです。このように労働条件は極めてきびしいものでした。

しかし、器械製糸が全県的に発達し、工場の規模が拡大する明治末ごろになると、日本資本主義の発達に伴い、全国的に労働者が不足し、確保が困難となりました。とくに、製糸業は、繭の生産と流通の面から季節的操業(そうぎょう)であり、製糸労働者の9割を占める女子工員は、一般に、3月~12月までの10ヵ月だけ出稼ぎをする近隣の農山村の若年女子がほとんどでした。そのため女子の奪い合いがおこり、高価な贈物を与えて勧誘(かんゆう)するなど、募集競争(ぼしゅうきょうそう)が激しくなったため、県外からも集めるようになりました。

こうして女工払底(ふってい)の傾向が強まるにつれ、次第に労働条件が改善され、慰安娯楽会(いあんごらくかい)や運動会、模範工女(もはんこうじょ)の表彰なども行われました。

また賃金も上がり、大正の中ごろには労賃の上昇率が糸価の上昇率を上回るようになりました。そこで製糸家は、生糸の質の向上と収益を上げるためにも積極的に機械化を進めなければならなくなりました。

大正期の製糸労働者の就業(しゅうぎよう)時間は、午前6時から午後6時までの12時間が一般的で、休憩(きゅうけい)時間は、午前・午後に各15分、昼食時に30分が当てられました。

  1. 運動会風景
  2. 講習会のようす
  3. 小県地方製糸工場の女工出身都市調べ
    (注) 長野県生糸同業組合連合会編「製糸工場調べ」による。
  4. 小県地方器械製糸工女年令別調べ
    (注) 長野県生糸同業組合連合会編「製糸工場調べ」による。