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1583 真田氏 2代 1622 仙石氏 3代 1706 松平氏 7代 1871 廃藩 置県

上田城と歴代上田城主

上田城の歴史

西南櫓

真田氏は上田城の北東、真田地域に本拠をもつ一小土豪でしたが、戦国時代末の幸隆(幸綱)のときに、信濃へ進出してきた武田信玄に仕えて頭角を現しました。武田氏の配下として、真田氏は幸隆・昌幸の2代で真田の地から峠を越えた上野国(群馬県)吾妻郡から沼田(利根郡)にかけて勢力を築いたのです。そして、天正10年(1582)の武田・織田両氏の相次ぐ滅亡による混乱の中で、昌幸は周辺の上杉・北条・徳川という強豪のはざまにあって目覚ましい働きを見せ、その勢力をさらに拡大し、天正11年には上田城築城にとりかかり、上田盆地を中心とする小県郡一帯をその支配下におさめました。こうして成立した真田領は石高は10万石たらずですが、上野・信濃の2国にまたがり、上田・沼田間だけでも約100kmもあるという広大なものでした。

上田城と真田氏の名は、天正13年(1585)と慶長5年(1600)の2度にわたる徳川の大軍の攻撃を退けた事で知られることとなりました。上田城跡は天守閣もありませんし、石垣も少なく決して見栄えのする城ではありません。しかし戦いに備えるだけではなく、領国統治の中心としても築かれた近世城郭としての平城でありながら、2度もの実戦の経験があって、しかも小よく大を制したこの上田城のような戦歴をもつ城は、全国でもほかに例はありません。

しかし、昌幸の築いた上田城は、関ヶ原合戦直後に破却され、その後真田氏の次の城主となった仙石氏により寛永3年(1626)からの工事で再建されました。この結果、本丸には7基の櫓と2基の櫓門が立てられました。現存する南・北・西櫓は、この時期のものです。

その後上田城主は、宝永3年(1706)に松平氏に替わりますが、政務は真田氏、仙石氏同様三の丸(現在の長野県上田高等学校)の藩主居館で行い、本丸・二の丸はそのままとなり明治維新を迎えています。その後、南・北櫓は民間へ売却されましたが、市民の熱意により買い戻され、昭和24年に再建されました。解体・移築を繰り返したにもかかわらず、仙石氏時代の面影をよく残しています。