真田氏 2代・40年間
真田氏の祖先は、応永7年(1400)九月の大塔合戦の様子を記した『大塔物語』に書かれている「実田」が真田氏であり、真田地域(上田市真田地域)を本拠地として、横尾・曲尾氏と並び立つ一地士(じさむらい)であったと考えられています。
真田氏は、平安時代から東信地方に栄えていた滋野三家(海野・祢津・望月氏)の中心的存在であった海野氏の一族で、戦国時代に活躍した真田幸隆(幸綱)は海野氏の棟梁の娘の子であったなど諸説があります。
天文10年(1541)武田信虎(信玄の父)が海野氏を討つために諏訪頼重、村上義清を誘ってしかけた「海野平の合戦」で海野氏が敗れると、幸隆も上州へ逃れました。幸隆は、天文15年(1546)ころ信玄の家臣となり、「信濃先方衆」の旗頭として東・北信濃の攻略で活躍しました。また、上田原合戦、砥石合戦、川中島合戦などでも常に武田勢の第一線で参戦。さらに信玄の命を受け、上野北部へ転戦、吾妻郡をまかされ、岩櫃城を拠点として活動しました。天正8年(1580)には、その子昌幸が沼田城を攻略。真田氏は吾妻郡から利根郡沼田までの群馬県北部に勢力を拡大しました。
真田信之
真田昌幸の長男で信繁(幸村)の兄。幼名は源三郎。天正13年(1585)の第一次上田合戦では、父昌幸とともに奮戦しました。後、信繁が豊臣秀吉に出仕したのに対し、信之は徳川家康に出仕し、家康の重臣、本多忠勝の娘小松姫を妻に迎えました。
関ヶ原の合戦では、西軍の石田三成に味方した昌幸・信繁と別れ、徳川の家臣として、父と弟の籠城する上田城攻め(第二次上田合戦)に従いました。合戦後、敗れた父と弟の助命嘆願をしたと伝えられています。その後、父の遺領の上田(小県郡)6万5千石を与えられ、自領の沼田3万石と合わせ、拝領高総計9万5千石の領主となりました。
信之は戦国の争乱で荒廃した農村の復興と上田城下町の整備に力を注ぎましたが、元和8年(1622)には、上田から松代(長野市)へ移封となりました。沼田領はそのままで、上田6万5千石より松代10万石への加増移封でした。
明暦4年(1658)、93歳という高齢で没しましたが、晩年まで藩主の座にあり、松代藩の基礎を固めました。
真田信繁(幸村)
上田城主とはなりませんでしたが、真田氏の武名を天下にとどろかせた一番の功労者は、真田信繁(幸村)です。昌幸の次男として生まれ、天正13年(1585)の第一次上田合戦(神川合戦)のおりには上杉方への証人として越後へ赴いています。ついで豊臣秀吉に出仕、秀吉側近の有力武将大谷吉継の娘を妻としました。関ヶ原の合戦においては、西軍の石田三成に味方し、父昌幸とともに上田に籠城、徳川軍を退けましたが、戦後、父と同じく敗戦の将として高野山へ配流となりました。その山麓の九度山で長い蟄居生活を送っていたところ、慶長19年(1614)大坂城の豊臣秀頼から誘いがあり、大坂に赴き豊臣側の武将として大坂の陣に参戦します。
なお、幸村という名がかなり古くから一般化し、徳川幕府編纂の『寛政重修諸家譜』等の真田氏の正式な系図までもが「幸村」としていますが、彼自身の署名から知られるその本名は「信繁」です。幼名は弁丸のち源次郎、文禄3年(1594)従五位下左衛門佐に叙任されています。
慶長19年の大坂冬の陣では、大坂城の南東の隅に出城「真田丸」を築いて籠城し、徳川の大軍を引き受け大勝利をおさめました。続く慶長20年の大坂夏の陣では、徳川家康の本陣へ突入し、家康をあと一歩のところまで追い詰めますが、奮戦むなしく討死しました。この活躍から「日本一の兵(つわもの)」称され、後世に名を残すことになりました。
仙石氏 3代・85年間
元和8年(1622)、真田信之転出のあとを受けて上田城主となった仙石忠政の父は、仙石氏中興の祖といわれる仙石秀久です。秀久は美濃の出身で織田信長の家臣となり、豊臣秀吉の配下として活躍し、讃岐国(香川県)高松城主となりました。
失敗を犯し所領を没収され、浪人となりましたが、天正18年(1590)小田原征伐に秀吉軍に加わり奮戦、これにより罪を許されて信州佐久郡を与えられ、小諸城主となりました。仙石氏の佐久郡支配は、秀久、忠政の2代33年間にわたりました。
忠政は天正6年(1578)に生まれ、慶長5年(1600)父秀久とともに徳川勢の一員として、上田城攻撃に加わっています。慶長19年と翌年の大坂冬・夏の陣にも従軍。元和8年、1万石が加増され、6万石余で上田へ移封となりました。寛永3年(1626)より上田城の復興工事に着手しますが、寛永5年(1628)病没。上田城普請は中断され、未完成のまま明治維新を迎えました。
宝永3年(1706)、政明のときに但馬国出石(兵庫県)へ移封となり、仙石氏の上田在城は、3代84年でした。
松平氏 7代・166年間
この松平氏は、三河在住時代以来の松平宗家(後の徳川氏)の分かれで、いわゆる「十四松平氏」の一つの藤井松平氏です。藤井松平氏は、家康より4代前の長親の5男利長を祖とし、そのあとは信一、信吉と継ぎましたが、信吉の次男忠晴が元和5年(1619)常陸(茨城県)において2千石を与えられて分家独立し、のちに上田藩主となる松平氏の初代となりました。この忠晴の子、忠周の代に上田に入封しています。
初代忠晴が寛永19年(1642)駿河(静岡県)の田中城主として2万5千石の大名になって以来、転封を繰り返した後、仙石氏と領地を交換する形で出石より上田へ5万8千石で入封しました。その後、2代上田藩主の忠愛の代に弟へ5千石を分知し、5万3千石で明治4年の廃藩まで、7代166年にわたり統治しました。忠周と、ペリー来航で騒然としていた幕末期の当主であった忠優(後、忠固)の二人が、幕府の老中を勤めています。
松平家の先祖信一は、永禄11年(1568)、織田信長が近江の六角義賢を攻めた際、徳川家康からの応援の軍勢を率いてその戦いに参加しました。その出陣の折に家康から餞として具足(黒糸威三葵紋柄具足・上田市指定文化財・当館蔵)を拝領し、また、織田信長からも戦功の賞として、韋胴服(国指定重要文化財・当館蔵)を拝領しています。