上田城下町の形成
 天正11年(1583)真田昌幸は、上田城を築くと同時に城下町づくりに取りかかった。現上田市街地の原型となった上田城下町の始まりである。
 兵農そして商農も分離 この時期、全国どこにおいてもそうであったが、領内の村々より武士階級を集めて(兵農分離)できた城下町は、さらに商人、職人をも城下へ吸収(商農分離)した。
 上田の場合も城の周辺に侍町ができると、その外側に商人・職人町がつくられた。
 商家街の核、海野町・原町 そしてその中核となったのは、今でも上田の中心街としての地位を保ち続けている海野町と原町であった。
 真田氏がその祖先としている海野氏の本拠海野郷(現東部町本海野)と真田氏の居館−通称「御屋敷」−のあった原之郷(現真田町本原)、真田氏に縁の深いこの地の人々を城下へ移住させて、中心街をつくったのである。また、この海野郷・原之郷ともに、中世より市が開かれていた土地でもあった。
 町人町の発展 海野町・原町に続いては、鍛冶町・紺屋町ができた。両町ともに、本海野から、鍛冶職人および紺屋職人が、移されてできた町である。その後、横町・田町・木町・柳町という、城下の町人町が整備されていった。
興善寺山浦氏墓所 / 本原に残る滝沢家墓地 / 慶長10年(1605)3月17日 柳沢与兵衛宛宮下藤右衛門判物 / 慶長15年(1610)3月10日 海野町蔵之助宛矢沢・宮下連署状

城下囲いの村々
寺社の配置