戸石城全景 東方より望む
沼田城 -群馬県沼田市-
上田築城以前の真田氏関係城砦
天正11年(1583)真田昌幸により、上田城が築かれるが、それ以前の真田氏関係のものといわれる諸城は、出身地である真田町を中心に分布している。角間の松尾城、十林寺の真田山城(真田本城)伊勢山の砥石(戸石)城などである。
もちろんこれらのほかに、北上州の岩櫃城、沼田城なども、保持していたわけである。(城名は『長野県町村誌』によった。カッコ内は『上田小県誌』による呼称)
神川合戦図(天正13年信州上田合戦図)
丸子城
天正13年(1585)10月17日 真田昌幸宛豊臣秀吉書状
徳川軍との対陣の最中、昌幸は豊臣秀吉(当時は羽柴姓)に書状を送り、その援助を求めていた。このとき初めて秀吉が昌幸に送った返書である。これにより、昌幸は秀吉とつながりができることとなった。道茂は秀吉の側近、また小笠原右近大夫貞慶は深志(松本)城主でありやはりこの頃、家康にそむき、秀吉に通じていた。
長野市松代 / 真田宝物館蔵
未だ申し遣はさず候の
慶長5年(1600)6月17日 真田信之宛徳川秀忠書状
真田信之が、徳川家康から、上杉氏征伐のため奥表(陸奥)出陣の命をうけた旨を、徳川秀忠の臣大久保忠憐を通して、秀忠に知らせたときの、秀忠の返書である。
長野市松代 / 真田宝物館蔵
御念を入れられ、大久保
江戸中納言
眞田伊豆守殿
慶長5年(1600)7月17日 真田昌幸宛長束正家等連署状
今度、家康が上杉景勝征伐のため出発したのは、誓詞や秀吉の遺言に背いて、秀頼を見すてて出陣したことになるので、豊臣家の五奉行等が相談して、家康を討つべく挙兵した旨を告げ秀吉の恩を忘れないでいたら、秀頼に忠節してくれるように、と昌幸に求めてきた密書である。長束正家、増田長盛、前田玄以の3名連署。
長野市松代 / 真田宝物館蔵
急度申し入れ候。今度
長大
増右
長盛(花押)
徳善
玄以(花押)
眞田安房守殿
御宿所
真田父子犬伏密談図
佐藤雪洞氏画
昌幸・信之・信繁(幸村)の父子3人が、密書の届いた犬伏の陣中で、密かにその向背について協議している様を描いたもの。
上田市二の丸3番3号(上田城跡公園内) / 上田市立博物館蔵
慶長5年(1600)7月24日 真田信之宛徳川家康書状
昌幸・幸村父子は、大坂方に味方すべく、上田へ向けて帰ったが、信之は父弟とたもとを分かち、そのまま徳川方に留まった。そこで家康が、信之の忠節を賞して、与えたものである。
長野市松代 / 真田宝物館蔵
今度安房守罷り帰られ候ところ、日
眞田伊豆守殿
慶長5年(1600)7月27日 真田信之宛徳川家康安堵状
家康は信之の忠信が、よほど嬉しかったものか、7月 24日付けの書状に続いて27日には、小県郡は親の領地であるから、それを没収のうえは、違儀なく信之に与える、その上、今後どのようにも取り立てる、という旨を約している。
真田家では、最重要文書として、保管してきた書状である。
長野市松代 / 真田宝物館蔵
今度安房守別心のところ、 その方忠節を致さるの儀、誠に神妙に候。然らば、小県の事は親の跡に候の間、違儀なく遣はし候。その上身上何分にも取り立つべきの条、その旨を以って、いよいよ
慶長五年
七月廿七日 家康(花押)
眞田伊豆守殿
慶長5年(1600)7月晦日 真田昌幸宛石田三成書状
真田昌幸は、大坂方(西軍)に応じる旨を、7月21 日付けの2度の書状で、近江佐和山の石田三成のもとに申し送った。その書状が27日、佐和山に到着、それに対する三成の返事である。
長束正家等よりの最初の密書が、7月17日付けであるから、それが21日までに、下野に着き27日には昌幸よりの返書が、三成のもとに届いているわけである。ずいぶん迅速な急飛脚であったことがわかる。
この書状により、石田三成は、挙兵の計画を事前に、昌幸に相談しなかったことについて弁明するとともに、昌幸等の妻子は、幸村の義父大谷吉隆が預っているから安心するように、などの事項を伝えている。
長野市松代 / 真田宝物館蔵
去る廿一日に両度の御使札、同廿七日に
一右の両札の内、御使者持参の書に相添ふ覚書並びに御使者の口上得心の事
一先づ以って今度の意趣、兼ねて御知せも申さざる儀、御腹立余儀なく候。然れども内府大坂にあるうち、諸侍の心如何にも計り難きに付いて、言発の儀遠慮仕り畢んぬ。なかんづく、貴殿御事とても公儀御疎略なき御身上に候の間、世間かくの如き上は、
一上方の趣、大方御使者見聞候。先づ以っておのおの御内儀方
一今度上方より東へ出陣の衆、上方の様子承はられ悉く帰陣候。然らば、尾・濃に於いて人を留めしめ、帰陣の衆一人々々の所存、永々の儀秀頼様へ疎略なく究め仕り、帰国候様に相トめ候の事
一大略別条なく、おのおの無二の覚悟に相見え候の間、御仕置に手間入る儀これなきの事
一
一当暮来春の間、関東御仕置のため差し遣はさるべく候。仍って九州・四国・南海・山陰道の人数、既に八月中を限り、先づ江州に陣取り並びに来兵粮米先々へ差し送らるべきの御仕置の事
一
一箇条を以って仰を蒙り候ところ、是また御使者に返答候、またこの方より条目を以って申す儀、この御使者口上に御得心肝要に候の事
一この方より三人使者を遣はし候。右のうち一人は貴老返事次第案内者そへられ、この方へ返し下さるべく候。残る二人は会津への書状ども遣はし候の条、その方より慥なる者御そへ候て、沼田越に会津へ遣はされ候て給ふべく候。御在所迄返事持ち来り帰り候はば、またその方より案内者一人御そへ候て上着待ち申し候の事
一
七月晦日
眞房州
御報
三成(花押)
慶長5年(1600)8月23日 真田信之宛徳川秀忠書状
上杉征伐のため、宇都宮に滞陣していた徳川秀忠が、明24日この地を立って、小県を攻めるから、お前もそのように心得て、小県へ出馬するように、上野沼田城の信之に申し送った書面。
秀忠軍は、秀頼方(西軍)と対決すべく、東山道を通って上方へ向かうことになったのだが、表向きは、反旗をひるがえして、上田城へ帰ってしまった真田昌幸を攻める名目で、西上の途についたことがわかる。
長野市松代 / 真田宝物館蔵
以上
わざわざ啓せしめ候。仍って明二十四日にこの地を罷り立ち、
恐々謹言。
八月廿三日 秀忠(花押)
眞田伊豆守殿
真田父子上田籠城図
「信州上田の防戦は、日本三籠城の一にして・・・・・・」とある。「新選太閤記」の一場面。
中央に真田昌幸、左に同幸村。明治期の錦絵である。
上田市二の丸3番3号(上田城跡公園内) / 上田市立博物館蔵
高野山蓮華定院
蓮華定院は、和歌山県高野山にあって、古来、信濃国佐久・小県両郡と関係の深い寺院。このため、この両郡関係の中世文書類を、数多く蔵していることで知られている。真田氏とも関係の深い寺院で、境内に信之の墓(大五輪塔)もある。 高野山配流となった真田父子は、この蓮華定院を頼った。九度山に落ち着いたのも、同院の世話によったものと思われる。
九度山真田庵
慶長16年(1611)6月13日 真田信之宛本多正信書状
同年6月4日、真田昌幸は、配所高野山麓九度山において没した。そこで信之は父の死を弔いたいとして、本多正信に相談した。それにつき、正信が、昌幸の死を
「切封端裏)
「 本多佐渡守
眞田伊豆守様 正信」
御報
御親父様、高野に於いて御遠行の儀、是非に及ばざる御事に候。然らば、貴公御弔ひ成されたきの由、示し預り候。尤の御事に候へ共、公儀御憚りの仁に候の間、御諚を得させられ候はでは如何の儀に候の条、いつにても御父子様へ御仕合次第、御意を得させられ、その上御赦免に於いては、御弔成され然るべく候はんかと存じ奉り候。御尋ねに候の間、貴公御ために候の条、愚意の通り啓上仕り候。誠に高野に御座成されて候ても、何事もなく御入り候へば、いづれ御国御赦免の儀、御袋様より節々仰せ下され候の間、御仕合をためらい申し候ところに、か様の儀幾度申し候ても是非に及ばざる御事に候。御袋様御内様へ御力落の由御心得に預るべく候。恐惶謹言。
六月十三日 正信(花押)
真田幸村画像(?)
年次不詳3月25日 真田信之宛同昌幸書状
高野配流中の昌幸より信之宛ての書状であるが、筆跡・内容からみて、幸村(信繁)の代筆とみられているもの。追って書き(追伸)のなかで、「次に左衛門佐(幸村)慮外ながら御言伝申し入れ候」として、永年の蟄居生活で、くたびれはてている旨、記している。
年次は昌幸の死去した慶長16年(1611)かその前年と推定されている。
長野市松代 / 真田宝物館蔵
追って、珍しからず候へども、玻璃の盆一つ、同じくとうさん二つこれを進じ候。書状の
その許の様子、久々承はらず候の間、半左衛門相下し候。御息災に候哉、承はりたく候。此の方別儀なく候。御心安かるべく候。但しこの一両年は、年積り候故、気根草臥れ候。万事この方の儀御察しあるべく候。委細は半左衛門申し達すべく候の間、
三月廿五日
安房
昌幸(花押)
豆州
参
真田幸村勇戦之図
歌川芳虎画
大坂夏の陣における、真田幸村の有名な奮戦ぶりを、描いてある。中央馬上が幸村、その右にやはり馬上の長男大助。
作者の芳虎は、号を孟斎または一孟斎という。天保年間(1830年代)より明治にかけて活躍した浮世絵師で、武者絵を得意とした。
上田市二の丸3番3号(上田城跡公園内) / 上田市立博物館蔵
真田幸村戦死の地
5月7日の午後、前日来の激戦で疲労し切っていた幸村は、越前松平隊鉄砲頭の西尾久作という者に首をとられた。その最期の地が、茶臼山のすぐ北側にある安居神社の地であるという。