上田軍記暦

信州上田軍記で描かれている時代の流れと上田市の歴史略年表を照らし合わせ、どのように時代と物語が流れていくのかを比較できるようにまとめてみました。

また、真田氏史料集から信州上田軍記の年代に合う史料をリンクとして掲載しました。



出来事 上田軍記史料
歴史略年表 信州上田軍記内略年表
天文十六年 一五四七   真田幸隆の三男昌幸生まれる    
永禄九年 一五六六   真田昌幸の嫡子信幸生まれる    
永禄十年 一五六七   真田昌幸の二男信繁生まれる    
天正二年 一五七四 五月十九日 真田幸隆逝く。享年六一歳    
天正二年 一五七四   真田信綱、真田氏を継ぐ。三八歳    
天正三年 一五七五 五月二一日 長篠の合戦、真田信綱・真田昌輝兄弟討死。信綱享年三九歳    
天正三年 一五七五   真田昌幸、真田氏を継ぐ。二八歳    
天正八年 一五八〇 五月二三日 真田軍、沼田城を攻略。海野幸光らを同城に在城させる。   沼田城 -群馬県沼田市-
天正九年 一五八一 正月二二日 真田昌幸、築城奉行となり、甲斐韮崎に新府城を築きはじめる。    
天正九年 一五八一 六月七日 真田昌幸、武田勝頼から沼田在城条目を受領    
天正十年 一五八二 二月 真田昌幸、武田勝頼の窮状を救わんとして、吾妻郡入りをすすめる    
天正十年 一五八二 三月十一日 武田勝頼・信勝父子ら甲斐の田野に於いて自殺。武田氏滅亡。 甲斐の国主、武田四郎勝頼、甲州田野の天目山において織田信長のために自殺に追い込まれる。 上田合戦起こりの事  
天正十年 一五八二 六月二日 織田信長、本能寺(京都)に死す。享年四八歳 織田信長が京都において明智日向守光秀に殺される。上田合戦起こりの事  
天正十年 一五八二 六月二八日   北条氏政が兵を率いて上州に乱入、厩橋城にいた滝川左近将監一益と戦い、滝川は力つき勢州へと逃げ帰る。上田合戦起こりの事  
天正十年 一五八二 七月一八日 北条氏直、信濃へ入る。真田氏ほか小県の諸将多くこれに属す    
天正十年 一五八二 八月二九日   北条氏直と徳川家康公と和睦があり、家康公からは上州沼田の城を氏直へ遣わされ、氏直からは甲州都留郡と信州佐久郡を家康公へ遣わし、速やかに兵を引いた、と、云々。上田合戦起こりの事  
天正十年 一五八二 九月二八日 真田昌幸、徳川家康に臣属。    
天正十一年 一五八三 六月十七日 真田昌幸、矢沢綱頼に沼田城在城を命ずる。   上田築城以前の真田氏関係城砦
天正十三年 一五八五 七月十五日 真田昌幸、徳川軍の進攻に備え、上杉景勝の援助を求める。 上杉景勝から矢沢薩摩守への書状の日付 昌幸と上杉景勝不和の事、附信幸信州所々働きの事  
天正十三年 一五八五 八月二日   真田昌幸は家康公へ手切れの返答をする。
家康公は諸大将を選び、上田城へ馳せ向かわせた。
家康公も軍兵を率いて甲州若神子まで出陣した。信州神川合戦の事
 
天正十三年 一五八五 八月   家康公の軍総勢七千余騎を長瀬河原から国分寺表を抜け、上田城へ詰め寄せる。信州神川合戦の事 神川合戦図(天正13年信州上田合戦図)
天正十三年 一五八五 閏八月二日   遠州勢、すっかり敗軍。鞠子合戦の事、附信幸物見の事  
天正十三年 一五八五 八月三日   浜松勢の大将大久保七郎右衛門忠世、諸大将と共に鞠子<丸子>の城へ攻め掛かろうと、八重原へ押し出る。鞠子合戦の事、附信幸物見の事 丸子城
天正十三年 一五八五 八月十九日 徳川軍丸子城を攻める、真田昌幸、丸子表へ出陣す。 徳川方の諏訪安芸守頼忠が丸子川に出張る。鞠子合戦の事、附信幸物見の事
天正十三年 一五八五 八月二十日   昌幸父子三人が丸子川に出張り、足軽を先頭に鉄砲を撃ち掛け、合戦を仕掛ける。鞠子合戦の事、附信幸物見の事  
天正十三年 一五八五 八月二九日 真田昌幸の二男信繁を人質として海津城に送る。
上杉郡、真田氏を援助のため小県郡曲尾(真田町)へ出動する。
   
天正十三年 一五八五 九月十三日   井伊直政と松平康重、五千人の軍勢を率いて上田表に着陣。浜松勢上田表引き退く事  
天正十三年 一五八五 十月 真田昌幸、豊臣秀吉の援助を求める。   天正13年(1585)10月17日 真田昌幸宛豊臣秀吉書状
天正十三年 一五八五 十一月   遠州勢はことごとく陣払いし、上田表から引き取った。浜松勢上田表引き退く事  
天正十五年 一五八七 三月十八日 真田昌幸、豊臣秀吉の命により、再び徳川氏に臣属。    
天正十七年 一五八九 二月十三日 真田信幸、徳川家康に仕える    
天正十七年 一五八九 七月二一日 秀吉、真田昌幸所領の沼田を北条氏直に渡すことを命ずる。    
天正十七年 一五八九     沼田の地を昌幸から北条家へ渡した。昌幸父子秀吉公へ謁見の事  
天正十九年 一五九一 七月二二日 豊臣秀吉、朝鮮出兵のため、真田昌幸・信幸に名護屋在陣を命ずる    
慶長五年 一六〇〇   家康公は大軍を率いて上杉家征伐のために関東へ下向された。
昌幸父子三人も家康公のお供をして関東へ向かった。後の上田陣起こりの事
 
慶長五年 一六〇〇 六月十七日     真田信之宛徳川秀忠書状
慶長五年 一六〇〇 七月十七日 豊臣氏奉行長束正家らから、真田昌幸宛西軍への勧誘状届く。 石田治部少輔が伏見城を攻め落とした書状を浮田秀家・毛利輝元・前田玄以・石田三成・増田長盛・長束正家らが昌幸に寄こし、仲間に加わるよう誘う。後の上田陣起こりの事 真田昌幸宛長束正家等連署状
慶長五年 一六〇〇 七月 下野(栃木県)犬伏に在陣中の真田昌幸・信繁、徳川家康に叛き上田城へかえる。   真田父子犬伏密談図
慶長五年 一六〇〇 七月二四日 徳川家康、真田信幸が徳川軍にとどまった忠節を賞す。   真田信之宛徳川家康書状
慶長五年 一六〇〇 七月二七日     真田信之宛徳川家康安堵状
慶長五年 一六〇〇 七月晦日     真田昌幸宛石田三成書状
慶長五年 一六〇〇 八月五日   石田三成の叛逆に加勢する旨の書状を受け取る。後の上田陣起こりの事  
慶長五年 一六〇〇     昌幸は密書を受け取り、深く思慮をめぐらした結果、父子の間を引き分けて、上田の城へ引き返し籠城した。後の上田陣起こりの事  
慶長五年 一六〇〇 八月二三日 徳川秀忠、沼田城主真田信幸に、上田城攻めの参陣を命ずる   真田信之宛徳川秀忠書状
慶長五年 一六〇〇 九月一日   家康公は、石田を征伐するために江戸城から東海道を西へ向かった。
秀忠公、軍勢を率いて野洲宇都宮を進発、中山道を通り、信州へ発向した。秀忠公上田城へ発向の事
 
慶長五年 一六〇〇 九月二日   上州高崎に到着秀忠公上田城へ発向の事  
慶長五年 一六〇〇 九月三日   松井田に到着秀忠公上田城へ発向の事  
慶長五年 一六〇〇 九月四日   秀忠公、信州小諸の城に到着。本多美濃守忠政・真田伊豆守信之の両人に上田の城へ行き、真田安房守の意志を問うて来るように命じる。秀忠公上田城へ発向の事  
慶長五年 一六〇〇 九月五日   本多美濃守忠政・真田伊豆守信之、上田の城に入る。秀忠公上田城へ発向の事  
慶長五年 一六〇〇 九月六日 徳川秀忠の大軍、上田城攻略ならず、小諸城へ引きあげる。 黎明、秀忠公、小諸を進発し上田へ攻め寄り、旗を染谷の台に立てる。秀忠公上田城へ発向の事  
慶長五年 一六〇〇 九月六日   朝、戸石の城にいた真田の軍兵が城を棄てて逃げ去る。秀忠公上田城へ発向の事  
慶長五年 一六〇〇 九月八日   秀忠公は上田の押さえとして森右近大夫を小諸の城に残し置かれて木曽路を上ろうとされたが、本多佐渡守の諌めに従って和田峠を越えず、役の行者を越えられた。秀忠公上田城へ発向の事  
慶長五年 一六〇〇 九月二十一日   家康公からの早馬の使者が上田に到着。
秀忠公に関が原の戦いは勝利したので、急いで上洛するように告げられる。
上田に軍兵を残し、秀忠公は木曽路から上洛した。秀忠公上田城へ発向の事
 
慶長十六年 一六一一 六月四日 真田昌幸、紀伊高野山(九度山町)の配所で逝く。 享年六五歳    
慶長十六年 一六一一 六月十三日     真田信之宛本多正信書状
慶長十八年 一六一三 六月四日   九度山にて昌幸、病死。七十歳。安房守昌幸父子高野山蟄居の事  
慶長十九年 一六一四 十月九日 真田信繁、豊臣秀頼の招きに応じ、一子真田大助と大坂城に入る。    
慶長十九年 一六一四     左衛門佐、秀頼卿謀叛の時に大坂の城へ立て籠り、武勇を天下に輝やかす。安房守昌幸父子高野山蟄居の事  
慶長二十年 一六一五 五月七日 真田信繁、天王寺表において討死(大坂夏の陣)。享年四九歳 摂州(摂津)大坂城にて、左衛門佐、戦死。四十九歳。安房守昌幸父子高野山蟄居の事 真田幸村戦死の地
慶長二十年 一六一五 五月八日 豊臣秀頼・淀君ら大坂城内で自害す。 真田大助討死