徳川軍を二度退けた名城
上田城は天正11年(1583)、真田昌幸によって築かれた平城で、上田盆地のほぼ中央に位置しています。堀と土塁で囲まれ、虎口(出入口)に石垣を使った堅牢な城です。第一次、第二次上田合戦で徳川の大軍を撃退し、天下にその名を轟かせました。数ある城郭のなかで、二度もの実戦経験をもち、輝かしい戦果をあげた城は、全国でも他に例がありません。
かつて本丸には櫓門2基、隅櫓7基がありましたが、現在は隅櫓3基と櫓門1基をみることができます。また、城内には石垣や土塁が至る所に残されています。
真田氏からはじまり、築城から400有余年。上田城は今もなお、訪れる人々を魅了しています。 美しい四季の風情とともに、戦国ロマンあふれる園内で、歴史探訪をお楽しみください。
西櫓(県宝)
尼ヶ淵の河岸段丘上に築かれた本丸隅櫓。外壁は下見板張り、その上から軒の部分までを塗籠(ぬりごめ)としています。これは漆喰が風雨にさらされて劣化するのを防ぐためのものでした。
また、格子窓に突き上げ戸がついた「武者窓」や、矢や鉄砲を放つための小窓「矢狭間(やざま)」「鉄砲狭間(てっぽうざま)」も設けられています。
堀と土塁(土居)
上田城の堀は素掘りで、堀を造るために掘りあげた土を、その内側へ堤状に積み上げて土塁としています。第二次上田合戦後、徳川勢により、上田城は土塁を崩し堀も埋められてしまいましたが、後に入封した仙石氏によって復興されました。
石樋(いしどい)
二の丸堀の水抜きの石樋。元禄15年(1702)仙石氏が修復した際に、木の樋から石の樋に変わりました。現在でも二の丸北口の百間堀には、陸上競技場側に切石を組み合わせた大きな樋の出口が現存しています。
真田井戸
現在眞田神社の境内に残る本丸唯一の井戸は、直径2m、深さは16.5mに達します。伝説ではこの井戸には抜け穴があり、城北の太郎山麓の砦や上田藩主居館(上田高校敷地)に通じていたと言われています。
尼ヶ淵(あまがふち)
上田城の本丸・二の丸の崖下には千曲川の緩やかで深い分流があり、天然の堀となっていました。この場所を「尼ヶ淵」と称したことから、上田城は別名「尼ヶ淵城」とも呼ばれていました。
東虎口櫓門(ひがしこぐちやぐらもん)と北櫓・南櫓
本丸の東虎口(城の出入口)は、昭和24年(1949)に城外にあった南櫓と北櫓が移築復元され、また平成6年(1994)に櫓門が復元され、かつての姿がよみがえりました。
本丸土塁の隅おとし
上田城本丸の北東(丑寅)の方角は鬼門にあたることから、土塁の隅を切りこみ「鬼門よけ」としました。これを「隅おとし」と言い、上田城の大きな特徴のひとつです。
また築城の際、城下の北東にも海禅寺と八幡社を鬼門よけとして配置しています。
真田石
本丸の入口右手の石垣に積まれている直径3mの城内一の大石。伝説では真田信之が松代へ移封する際、父・昌幸の形見として持って行こうとして全く動かなかったので、父の知略の深さに驚き、形見にすることをあきらめたと伝えられています。この真田石のほか、城内の石垣に使われた石材の大部分は、市街地北方の太郎山産の緑色凝灰岩を使用しています。
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