上田城について
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明治以降の上田城

東京鎮台第二分営へ

 明治4年(1871)、明治政府により東京・大阪・東北・鎮西の4鎮台(陸軍の軍団で、後の師団)が置かれます。それにともない上田城は国の兵部省に接収され、東京鎮台第二分営が置かれました。この第二分営長は後の将軍・乃木希典少佐でした。第二分営は旧藩主邸に本部を置き、上田城には調練場と火薬庫が設けられました。

上田城払い下げ

払い下げが進む本丸東虎口(明治11年頃と推定)出典写真 上田市立博物館

 明治6年(1873)第二分営は廃止され、明治7年(1874)、上田城の本丸、二の丸の土地、建造物、樹木などの一切が民間に払下げられることになりました。
 当時の払下げ予定価格は土蔵6棟で240円、櫓は1棟で12円50銭と見積もられました。他に転用のしようがない櫓より土蔵の方が高く見積もられていました。この上田城の穀蔵の一つを移築したものと伝える土蔵が市内に現存しています。
 しかし、櫓の方は入札価格に達せず1棟6円で分売され、建造物や石垣は取り壊され、西櫓を除いた全ての建造物と石垣の一部が解体されました。この上田城の櫓のうち、2基は明治11年(1878)市街地北方の太郎山山麓に設置された上田遊郭に移築され「金州楼」と「万豊楼」という遊女屋(貸座敷)として使われました。

城跡の公園化

冬の本丸東虎口と松平神社・丸山稲荷社 明治12年10月26日以降撮影出典写真 平井聖氏所蔵
上田監獄署(明治26年2月撮影)出典写真 個人蔵
二の丸堀を通っていた上田温泉電軌北東線出典写真 上田市立博物館

 明治12年(1879)、城の面影が失われていくのを惜しんだ松平家旧臣や住民から本丸内に松平神社を創建し、本丸の残りの地も遊園地として保存しようとの動きが起こりました。その趣旨に賛同した常磐城村在住の丸山平八郎直義は、所有していた本丸の土地を神社用地として寄付し、松平氏の祖霊を祀った松平神社が創建されました。丸山氏は後に本丸上段と堀の一部も神社附属の遊園地用地などとして寄付し、唯一残された西櫓についても旧藩主松平忠礼に献納しています。これにより上田城跡の中核部分は市街化などの破壊から免れ、現代に遺されることになりました。

 本丸は公園として整備が進められていましたが、二の丸はその大部分が桑畑になっていました。明治18年(1885)二の丸正面側に、高い土塀をめぐらした刑務所ができ(現在の市立博物館のあたり)、伝染病院(現在のプールのあたり)や桑畑として利用されましたが、大正時代に入ると二の丸の公園化の要望が高まります。

 大正12年(1923)上田市公会堂(市民会館の前身)が建設され、大正13年から昭和3年にかけて、上田市が二の丸の土地を買い上げ、刑務所等を移転しました。大正末期には体育・文化施設や顕彰碑、遊戯施設等の建設が行われました。こうして昭和初期には公園として市民に開放され、市街地に隣接した中核公園として親しまれてきました。また、昭和3年(1928)から同47年(1972)まで二の丸堀には上田駅と真田・傍陽駅を結んでいた上田温泉電軌北東線(真田傍陽線)が通っていました。現在、上田城跡公園けやき並木にプラットホーム跡が、二の丸橋のアーチ部分に当時の架線用ガイシが残っています。

 一方で昭和9年12月28日には、本丸、二の丸の大部分が国史跡に指定されています。

当時の風景

二の丸橋の工事(昭和元年頃撮影)
二の丸橋の工事(昭和元年頃撮影)
出典写真 上田市立博物館
児童遊園地ができる(昭和3年)
出典写真 上田市秘書課蔵
上田市公会堂開館(大正12年11月13日)
出典写真 上田市立博物館
徴古館にするための改修をしているようすを写したもの(昭和3年9月)
出典写真 上田市立博物館

櫓の移築復元へ

上田遊郭にあった2棟の櫓(昭和16年頃撮影)出典写真 上田市立博物館
櫓門復元以前の東虎口の様子(昭和40年)出典写真 上田市立博物館
現在の上田城出典写真 上田市観光課

 市内で遊女屋(貸座敷)として使われていた本丸の隅櫓2棟は、妓楼として営業していましたが、昭和4、5年頃に廃業。その後上田市へ寄贈の申し出がありましたが、移築には多額の費用を要するためそのままになっていました。

 ところが昭和16年(1941)、櫓が東京の料亭に転売されることになり、これを知った市民の間から櫓を買い戻し、城跡に移築復元しようという保存運動が起こりました。当時の上田市長・浅井敬吾を会長として上田城阯保存会が結成され、市民の寄付金により櫓は買い戻されました。国指定史跡への移築工事となるため、国や県との調整も進められ、文部省の技官が実地調査に訪れています。その際「非常に原形のままになっていることに驚いた」といいます。

 移築復元工事は太平洋戦争さなかの昭和18年(1943)から始められましたが、戦時下では建築資材も配給を待たなくてはならなかったことや、戦局悪化により4年間の中断をしました。戦後の混乱もおさまりかけてきた昭和23年(1948)再発足した上田城阯保存会により、資金募集活動と工事が再開されることになり、昭和24年(1949)、現在の南櫓、北櫓として完成しました。この二つの櫓と寛永期から現存するとみられる西櫓は、昭和34年(1959)に長野県宝に指定されました。

 昭和42年(1967)と昭和56~61年(1981~1986)の2回にわたる保存修理工事が行われ、かつての姿を甦らせました。

 現在、上田城跡は史跡公園として整備され、市民の憩いの場として千本桜まつりやけやき並木紅葉まつりなど、四季を通して賑わいを見せています。上田市は上田城跡を国民共有の文化財・史跡としてふさわしい姿に整備していくために、『史跡上田城跡整備基本計画』を策定し、この計画に基づき発掘調査と整備事業を実施しています。本丸東虎口櫓門や二の丸北虎口石垣の復元整備等を行い、尼ケ淵に面した石垣や崖面の修復工事を実施してきました。

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