上田城について
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松平氏在城時代

松平氏の出自

松平家家紋・五三の桐 宝永3年(1706)、出石藩(兵庫県豊岡市)に移封となった仙石氏に代わって、出石から松平忠周が入封しました。

  三河在住時代以来の徳川一族で、藤井松平氏とも呼ばれる松平氏は、明治維新に至るまで7代、160年余にわたって上田藩を治め、譜代大名として幕府の要職をたびたび務めています。
 特に6代忠優(忠固)はペリー来航に始まる幕末の動乱期に二度江戸幕府の老中になり、国政にあたりました。
 松平氏時代は上田の経済発達や産業振興にともない、上田独自の文化が育まれ、幾多の人材を輩出しましたが、宝暦騒動等の一揆も多発しました。


享保の石垣普請

西櫓下の石垣

 享保17年(1732)5月、千曲川の大洪水により、上田城の本丸、二の丸の南側の尼ヶ淵の崖が大きく崩壊しました。その破損を修復するとともに、崖の前面に護岸用の石垣を築き洪水に備えました。上田城の石垣は、この護岸用石垣を築いた以外は、大規模な改修は行われず、仙石氏時代の姿が幕末まで維持されました。また当時の石垣は西櫓や南櫓の下に現在でも見ることができます。

地震による修復

 幕府の許可を仰いだ石垣等の修復工事は、享保18~21(元文元)年(1733~36)、寛延3年(1750)、宝暦7年(1757)、天明8年(1788)、天保14年(1843)、弘化5年(嘉永元年)(1848)、安政3年(1856)、万延元年(1860)の8回が記録に残っていますが、隅櫓に使用されていた瓦の刻印により、元文元年、天明元年(1781)、天明3年、文政13年(1830)等にも屋根の補修が行われていたことが窺えます。
 弘化5年(嘉永元年)(1848)の普請は、前年に起こった善光寺地震による被害箇所の修復で、石垣のほか本丸の櫓2ヶ所の傾きを治すものでした。

 また安政3年(1856)の普請は、安政元年の地震による塀の傾きと石垣の崩れを補修しています。

二の丸の土蔵

 現在、上田城跡公園二の丸の市立博物館のあたりに、廃城前まで6棟の土蔵が立っていました。
天明8年(1788)に4棟、天保14年(1843)にもう2棟造られ、6棟になったと考えられます。この土蔵も明治7年から始まった上田城払下げにより、解体されました。。

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