上田城について
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真田氏築城と慶長の破却

真田一族とは

真田家家紋・六文銭 真田一族は上田市真田地域を本拠地とする土豪でした。真田昌幸の父・幸隆が武田信玄の家臣となり、信州先方衆の旗頭として、東・北信濃から北上州攻略戦の第一線を転戦しました。

 昌幸は幸隆の三男で、幼い頃から甲州で信玄に仕え、信玄の母方の名家・武藤家を継ぎ、武藤喜平衛と名乗っていました。天正3年(1575)の長篠の合戦で信玄の息子である勝頼が織田・徳川連合軍に大敗します。この時二人の兄・信綱、昌輝が討ち死にし、昌幸が信濃に戻って真田家を継ぐことになりました。

 天正10年(1582)、織田信長の進撃により武田勝頼が自刃し、主家の武田家が滅亡します。その信長もわずか3ヶ月後、本能寺の変で命を落としました。この動乱期に昌幸は巧みな外交戦術で生き残りを図りながら、小県郡の制圧に乗り出します。天正10年10月には禰津氏を、翌年閏1月には丸子において依田窪地方の諸侍を攻めています。このような状況下、上田築城が開始されました。

上田城築城

 天正11年(1583)、昌幸は上田城の築城と城下町整備に着手します。上田城は南を千曲川およびその分流の尼ヶ淵(現在・上田城跡駐車場一帯)の断崖に面し、北と西は矢出沢川に外堀の役目を果たさせるなど、天然の要害も兼ね備えていました。このような水系・地形から上田城は東側が弱く、城下町も東側にしか広げられない点から、東側を強化するように街並みが広がっています。現在でも町の中心地である海野町がそれにあたります。

 真田氏時代の上田城については、史料が乏しく不明な点が多いのですが、梯郭式の曲輪や、本丸、二の丸の北東部に鬼門除けとみられる「隅欠(すみおとし)」を設けるなど、縄張りの基本的な部分は仙石氏以降の上田城にも踏襲されていると推定されています。

 建造物については発掘調査等で出土した瓦によって、本丸はもちろん二の丸や西側の小泉曲輪等にも瓦葺きの建造物が建てられていた可能性が認められます。特に金箔を押した鯱瓦、鬼瓦、鳥衾瓦(とりぶすまかわら)や、伏見城、大坂城に起源のある菊花紋軒丸瓦、五七桐紋鬼瓦の出土は、真田氏の上田城が松本城、小諸城などとともに秀吉配下の城郭として整備されたことを示しています。(出土した瓦は現在上田市立博物館に収蔵されています)。

第一次上田合戦

 天正13年(1585)、当時徳川家康の配下だった昌幸は、上州沼田領を北条氏直に譲るよう命じられます。しかし沼田領は幸隆・昌幸二代にわたり独力で獲得した領地でもあり、昌幸はその命令を拒絶。徳川家康の攻撃を受けます。

 第一次上田合戦と呼ばれるこの戦闘は、徳川勢7000余に対し、真田勢は2000人に足らないほどだったといわれます。昌幸の巧みな戦術と長男・信之(信幸)の活躍により、 徳川軍を撃退し、真田の名は一躍有名となりました。昌幸は以後、上杉景勝、豊臣秀吉に臣従し、領国と城の整備に努めました。

第二次上田合戦

真田父子犬伏密談図(上田市立博物館所蔵)出典写真 上田市立博物館

 慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の合戦が起きます。この時、昌幸と次男・信繁(幸村)は石田三成方に、長男の信之は徳川家康方に属し、真田家は親子兄弟が敵味方に分かれて戦うことになります。

 同年9月、昌幸は中山道を西上する徳川秀忠の大軍3万8000を相手に、真田勢はわずか2500で上田城で籠城戦を展開します。第二次上田合戦は、両者にらみあいのうちに、小規模な衝突が起こっただけで大きな戦闘はありませんでした。しかし、秀忠軍はこの上田に数日間も釘付けにされ、関ヶ原の決戦に遅れてしまい、家康の逆鱗にふれることになったのです。

上田城、慶長の破却

 真田昌幸の健闘もむなしく関ヶ原の合戦は徳川方が勝利しました。関ヶ原の合戦後、上田城は破却され、廃城同然で昌幸の長男の信之に引き渡されました。信之は上田城の修復をせず、三の丸に屋敷を構えて(現在・上田高校)藩政にあたりましたが、元和8年(1622)に松代藩(現在・長野市)に移封を命じられました。真田氏の上田在城期間は39年間でした。

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