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巨星落つ〜晩年〜受け継がれる志

先生は昭和5年(1930)3月2日に逝去された。遺体は、同じ病理学教室の長与又郎教授の執刀により解剖された。身長は149cm、体重は34.5kgだった。予想に反して結核は治っており、解剖に立ち会った人たちを驚かせた。両方の肺は、結核のために上半分が完全に破壊されて鶏卵の二倍ぐらいの硬い塊になっていた。先生がたびたび喀血し、時には大喀血で危険な容態に陥った原因は、結核が治った結果としてできた気管支拡張性空洞からの出血だった。肺炎のあとの死亡だったが、直接の死因は全身臓器の甚だしい萎縮にあり、早々に心臓麻痺を起こしたためだった。先生の臓器は先生自身が決めた型どおりに、学生や関係者にたいして「デモンストラチオン」された。長与は剖検録を述べたあと、追憶を語り、最後を「先生の一生は通俗的に艱難の連続なり、悲壮なり、精神的には高級の勝利なり。しかしては実に意志の勝利なり。実に勇気と沈勇に充ち満ちたる男性的の一生、以て範とすべし」と結んだ。 葬儀は神式で行われ、谷中天王寺の墓地に葬られた。

山極勝三郎・包子夫妻写真 山極勝三郎・包子夫妻
昭和3年(1928)、自宅でくつろぐ晩年の山極夫妻。


勝三郎のデスマスク写真 勝三郎のデスマスク
山極勝三郎は、昭和5年(1930)3月2日、
急性肺炎で逝去した。享年67。
遺言により、遺体は門弟の長与又郎教授執刀
により解剖され、後進の医学研究のために
提供された。
東京大学医学部標本室蔵。
山極勝三郎の墓写真 山極勝三郎の墓
東京・谷中霊園。