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略年譜〜山極先生ってどんな人?〜
和 暦 | 西暦 | 年齢 | 山 極 勝 三 郎 関 係 | 日本史・世界史 |
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文久3年 | 1863 | 0 | 2月23日、父上田藩士山本順兵衛政策、母ともの三男として生まれる(長兄彦太郎、次兄きゅう[金へんに九]次郎)。 | 薩英戦争。 |
元治元年 | 1864 | 1 | 禁門の変。第一次長州征討。 | |
慶応元年 | 1865 | 2 | 第二次長州征討。 | |
慶応2年 | 1866 | 3 | 薩長連合。 | |
慶応3年 | 1867 | 4 | 大政奉還。 | |
明治元年 | 1868 | 5 | 戊辰戦争。 | |
明治2年 | 1869 | 6 | 版籍奉還。 | |
明治3年 | 1870 | 7 | ||
明治4年 | 1871 | 8 | 廃藩置県。 | |
明治5年 | 1872 | 9 | 後に養父となる旧上田藩御典医山極吉哉、馬場町の自宅を引払い、東京四谷荒木町で開業する。 | 学制発布。太陽暦を採用。 |
明治6年 | 1873 | 10 | 9月、上田第一番小学校(松平学校)に入学。 | 徴兵令。地租改正。 |
明治7年 | 1874 | 11 | ||
明治8年 | 1875 | 12 | ||
明治9年 | 1876 | 13 | ||
明治10年 | 1877 | 14 | 12月、上田第一番小学校卒業。妹末子誕生。 | 西南戦争。 |
明治11年 | 1878 | 15 | 1月、上田変則中学校(上田高校の前身)に入学、漢学、数学、英学、理学を修業する。 | |
明治12年 | 1879 | 16 | 1月、恩師正木直太郎の勧めにより山極吉哉の養子となり入籍、山極姓に改める。 3月、中学校を卒業後に上京、本郷菊坂町の私立ドイツ語学校に入学し、ドイツ語を修業。 12月、神田一橋の東京外国語学校に転じ、外国語、漢学、数学を学ぶ。 |
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明治13年 | 1880 | 17 | 11月、東京外国語学校を卒業。 12月、東京大学医学部予科四級甲に入学、ドイツ語、漢学、ラテン語、博物学、理化学を学ぶ。 |
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明治14年 | 1881 | 18 | ||
明治15年 | 1882 | 19 | コッホ、結核菌を発見。 | |
明治16年 | 1883 | 20 | 6月、実父山本順兵衛逝去(55歳)。 12月、東京大学医学部予科一級を卒業する。成績優秀につき、褒賞給費金を付与される。 |
コッホ、コレラ菌を発見。 |
明治17年 | 1884 | 21 | 1月、山極家長女包子と結婚。 12月、東京大学医学部本科に入学。 |
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明治18年 | 1885 | 22 | 1月、上田郷友会月報を小河滋次郎らと創刊し、巻頭言を執筆する。 | 内閣制度、伊藤博文初代総理大臣に就任。 |
明治19年 | 1886 | 23 | 12月より特待学生となる。 | 帝国大学令公布。 |
明治20年 | 1887 | 24 | 最初の研究業績「唾液の作用」(東京医学会雑誌第1号)を発表。 「未来夢ものがたり」を執筆。 |
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明治21年 | 1888 | 25 | 1月、長男一郎生まれるも、8月に夭折。 11月19日、東京帝国大学医学部を卒業。 11月29日、病理学教室に助手として勤務。月給40円を給される。 |
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明治22年 | 1889 | 26 | 9月、東京医学会総会において研究報告。 | 大日本帝国憲法発布。北里柴三郎、破傷風菌の純粋培養に成功。 |
明治23年 | 1890 | 27 | 2月、長女春子誕生。養父のもとを離れて東京市弓町に新居を構える。 7月、肺ジストマ病の研究のため井上善次郎とともに岡山県下玉村(現高梁市)方面に出張する。 |
第1回帝国議会。教育勅語発布。コッホ、ツベルクリンを創製。北里柴三郎、血清療法を発見。 |
明治24年 | 1891 | 28 | 3月24日、医科大学助教授に就任、叙奏任官五等。飯田町に転居。 4月、ドイツに留学。コッホ博士のもとで結核治療薬ツベルクリンの研究をする。 12月、叙正八位。 |
北里柴三郎、伝染病研究所を設立。 |
明治25年 | 1892 | 29 | 4月、ベルリン大学のウィルヒョウ博士のもとで病理学・病理解剖学を学ぶ。 | |
明治26年 | 1893 | 30 | ||
明治27年 | 1894 | 31 | ローマで開かれた第11回国際医学会に日本代表として出席。 5月17日、ドイツより帰国。 |
日清戦争。北里柴三郎、ペスト菌を発見。 |
明治28年 | 1895 | 32 | 3月、叙高等官七等。4月、次男二郎誕生。6月、叙従七位。 9月21日、医科大学教授となり、病理学病理解剖学第二講座を担当する。 10月、『病理総論講義』刊行開始。 11月28日、医学博士の学位を受ける。叙高等官六等。 |
下関講和条約。 |
明治29年 | 1896 | 33 | 1月、叙正七位。 台湾総督乃木希典の懇願により、緒方正規とともに台湾にペスト研究のため出張。 妹末子、上田町新町の滝沢虎次郎と結婚。 |
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明治30年 | 1897 | 34 | 12月、叙高等官五等。 | 志賀潔、赤痢菌を発見。 |
明治31年 | 1898 | 35 | 1月、海軍大学校教授を嘱託される。3月、叙従六位。 同月、近所の失火で自宅が焼失、長女春子焼死する。 9月、『脚気病論』を刊行。 |
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明治32年 | 1899 | 36 | 勲五等双光旭日章授章、 2月、初めて肺尖カタル(肺結核)を発病し国府津で静養。 5月、三男三郎誕生。12月、『ペスト病論』を刊行。叙高等官四等。 |
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明治33年 | 1900 | 37 | 2月、叙正六位。 | |
明治34年 | 1901 | 38 | 2月、『病的材料観察法』刊行。 | |
明治35年 | 1902 | 39 | 1月、叙高等官三等。4月、叙従五位。次女梅子誕生。 『病的材料観察法実習』の刊行開始。 |
ウィルヒョウ死去。日英同盟。 |
明治36年 | 1903 | 40 | ||
明治37年 | 1904 | 41 | 8月、叙高等官二等。10月、叙正五位。 | 日露戦争。 |
明治38年 | 1905 | 42 | 勲四等瑞宝章授章。 2月、長兄彦太郎死去。3月、三女花子誕生。 5月、『胃癌発生論』刊行。 |
ポーツマス講和条約。 |
明治39年 | 1906 | 43 | 1月、海軍軍医学校病理解剖学教授を嘱託される。 4月、実母山本とも死去(72歳)。 |
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明治40年 | 1907 | 44 | 学術雑誌「癌」を創刊。 | コッホ、来日。 |
明治41年 | 1908 | 45 | 4月、四男末男誕生。 渋沢栄一らの援助により癌研究会を設立。 |
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明治42年 | 1909 | 46 | 6月、勲三等瑞宝章授章。 11月、養父山極吉哉死去。 |
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明治43年 | 1910 | 47 | 1月、叙従四位。 4月26日、病理学病理解剖学第一講座の担任となる。 同月、大阪出張の後、京都で喀血して入院し、9月に帰京。 |
韓国併合。 |
明治44年 | 1911 | 48 | 第1回日本病理学会が開催され会長に就任する。 | 野口英世、梅毒スピロヘータの純粋培養に成功と発表。 |
大正元年 | 1912 | 49 | 次兄浅野梹沽Y病死。「脚気の研究について」を発表。 | |
大正2年 | 1913 | 50 | 5月、叙高等官一等。 市川厚一と人工癌の発生予備実験を開始。 |
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大正3年 | 1914 | 51 | 人工癌の本実験を開始。 | 第一次世界大戦。国産顕微鏡エム・カテラ誕生。 |
大正4年 | 1915 | 52 | 3月、叙正四位。 5月、兎耳人工癌の発生を確認。 9月25日、東京医学会で人工癌の発生を報告。 |
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大正5年 | 1916 | 53 | 勲二等瑞宝章授章。 「上皮性腫瘍の発生に関する実験的研究第一報告」を発表。 |
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大正6年 | 1917 | 54 | 4月6日、在職二十五周年記念祝賀会開催される。 米国ロックフェラー研究所のウェリチ、フレキシナー両博士が来訪。野口英世博士来訪。 |
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大正7年 | 1918 | 55 | 8月、米国癌研究会の名誉会員に推薦される。 帝国学士院において、人工癌の研究について一括報告。 |
野口英世、黄熱病原体(ワイル病スピロヘータ)を発見。 |
大正8年 | 1919 | 56 | 4月、帝国学士院会員となり、5月、市川厚一と共に帝国学士院賞を授与される。 | パリ講和会議。 |
大正9年 | 1920 | 57 | 6月、叙従三位。 | 国際連盟加入。 |
大正10年 | 1921 | 58 | 次女梅子結婚。 7月、墓参のため上田に帰郷、別所温泉、善光寺などを訪れる。 10月、ウィルヒョウ生誕百年祭を開く。 12月、ノーベル生理学・医学賞候補に推薦されることが報じられる。 |
ワシントン軍縮会議。 |
大正11年 | 1922 | 59 | ||
大正12年 | 1923 | 60 | 9月18日、東京帝国大学定年退官。 海軍軍医学校において勅任官待遇となる。 10月、叙正三位。 12月、『曲川句集 巻の一(病める凡人の声)』を刊行。 |
関東大震災。 |
大正13年 | 1924 | 61 | 3月、東京帝国大学名誉教授となる。 | |
大正14年 | 1925 | 62 | 三女花子結婚。 | 普通選挙法・治安維持法成立。ラジオ放送開始。 |
大正15年 | 1926 | 63 | 山極家累代の墓を東京谷中墓地に建立。 11月、ドイツのハレ学士院から会員に推戴される。 12月、ヨハネス・フィビゲル(デンマーク)がノーベル生理学・医学賞を受賞し、勝三郎は受賞を逃す。 |
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昭和2年 | 1927 | 64 | ||
昭和3年 | 1928 | 65 | ドイツから癌研究の最高賞ソフィ・ノルドホフ・ユング賞を贈られる。 「曲川句集 巻の二(朝顔の巻)」を刊行。 |
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昭和4年 | 1929 | 66 | 3月、ドイツ大使館においてノルドホフ・ユング賞の伝達式。 12月、妹末子死去。 |
フレミング、ペニシリン発見ハッケン。 |
昭和5年 | 1930 | 67 | 3月2日、急性肺炎のため死去(67歳)。遺言により遺体は翌日長与又郎教授の執刀により病理解剖に付される。没後、勲一等瑞宝章が授与される。 | ロンドン軍縮会議。 |