Logo
サイトマップ

俳句でみる人柄(1/2) 〜山極先生ってどんな人?〜

高い理想と強い意思、そして、あくことのない努力によって、今まで人類が成し遂げることのできなかった業績を打ち立てた山極先生―。その人柄はとてもいかめしい学者のように想像されるが、はたしてそうだったのだろうか?

医科大学教授を務めていた明治32年(1899)、山極先生は当時不治の病と恐れられていた肺結核で倒れ、まわりの人たちの援助もあって寒い年の暮から翌年の春までの間、国府津(こおづ)に行って病気の療養につとめることもできるようになった。

遠く離れて療養生活を過ごす先生は、そのころから俳句を作るようになった。

号を「曲川(きょくせん)」といった。これは、幼いころ朝に夕に眺めたふるさとの川−千曲川にちなんだものである。俳句といっても、芭蕉や一茶の俳句とは違って、先生独特のものであった。自然の美しさや人生を見つめて句を作るというよりは、胸の中にわき上がってくる感じをそのまま句にすることによって自分の生をみつめ、自分を励ますというところに先生らしさがあった。

あなうれし けふ(きょう)は三十六度九分

われながら あきれはてけり わがからだ はたらくときは ごぜんはんにち

その年、先生は今まで大好きだった「たばこ」をやめようと決心した。妻の包子(かねこ)も、この禁煙に協力した。しかし、先生にはなかなかこの禁煙が実行できない。

夫婦して、たばこのまじとちかいけり

ながき日の けふ(きょう)は とりわけ ながきかな

ときどき、妻の包子の目を盗んでは、かくれて、“一本だけ…”“一本だけなら…”とついつい吸ってしまうのである。

おにのるす たばこ一本 のんでけり

一本で ちかいも けむ(煙)と 消へ(え)にけり

研究に全力を傾け、真剣なまなざしで取り組む先生からは、想像もできないこんなほほえましい一面があった。

写真 写真 元旦書き初め
「新年を例のとをりの室籠り」(左)
「やれやれと先ず振りかへる年の関」(右)

山極先生は明治32年に肺結核を患い、以後度々療養生活を余儀なくされる。冬場は神奈川県国府津で静養するのが恒例となっていた。
写真 教授室の勝三郎と自筆の句
大正8年頃、教授室で顕微鏡を覗く勝三郎と、「老ゆるをも知らでながむる小世界」の自作の句。

勝三郎の教え子で、後年第一講座の教授に就任する鈴木遂がいただいたもの。
〔写真提供:東京大学医学部人体病理学・病理診断学分野〕

12→

Page Top