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その頃の山極家〜ドイツ留学時代

山極先生のドイツ留学中の留守を守る奥さんの思い出話(包子「亡父の思い出」昭和12年)の中に『−−明治24年(1891)(勝三郎が)文部省より洋行を命じられたので、私たち(包子と長女春子)は、また父母(吉哉)たちと一緒に暮すことになり、家計はますます困難。高利貸しには月々、早く借金を返せとせめられた。父も先生の名誉を傷つけたくないといって、私には相談もなく、東大の教授の先生方にお願いして毎月、相当額のお金を借りることにしたが、それでも十分とはいかなかったので、私は手内職までした。……−』 という意味のことが述べられている。

帰国して、このことを知った先生は、まことに不服で気げんも悪かったようであるが、そうかといってすぐ返金できるという望みは先生にはなかった。後になっての話であるが、“山極先生は金銭的には零点であるが、人格的においては百点である”。と先生を評した人がいるが、先生はどうも金銭的なやりくりは苦手のようであった。

一方、先生のふるさと信州上田の実家ではそのころ、長兄の彦太郎が山本家を継いだが、子どもがなかったので、次兄のきゅう[金へんに九]次郎の子どもをもらって養子とした。きゅう[金へんに九]次郎は上田の浅野という家に婿にいき、多くの子どもに恵まれたので、四男の亮(あきら)を長兄の山本彦太郎の家に養子にやることにしたのである。また、妹の末子は、実家の近くの新町の滝沢虎次郎というのりおき業(家紋や着物の模様などを書く職業)の家にお嫁にいった。

このように兄たちと妹は、それぞれに独立したがそれもつかのまで、まもなく長兄山本彦太郎夫妻の病死、(明治36年1903彦太郎妻津と子の死・明治38年1905彦太郎病死)そして数年後には次兄きゅう[金へんに九]次郎の病死という不幸が続いた。あとに残されたのは、年老いた母と実兄の子どもたちである。山本家では、家や土地も人に売らなければならなくなった。実母は家を借りて足袋の裏打ちをして細細と暮らしを立てている有様であった。先生はこの母を東京に呼び寄せ、さらに実兄の3人の子どもの面倒をみなければならなくなり、そのため、家計の支出は重なる一方であった。 こうした中にあっても、病理学研究にかける先生の執念はすこしもにぶらなかった。むしろなお、いっそう燃えてきた。