ドイツへの旅立ち(1/2) 〜ドイツ留学時代
山極勝三郎肖像
明治24年4月撮影。ドイツ留学直前の写真。
先生は明治21年11月に東京大学医学部を卒業し病理学教室の助手になり、24年に助教授、28年に教授へと進んだ。
先生は明治24年4月に出発しベルリン大学のウィルヒョウのもとに留学した。この留学の本来の目的はコッホの発表したツベルクリンの調査だった。
明治24年(1891)4月26日午前9時、山極先生を乗せたフランス船「ヤンツェ号」は、横浜港を後にした。
だんだんと眼前に広がってくる大海原を、じっと見つめて甲板に立つ山極先生の胸は、はやくもドイツに走っていたことはいうまでもない。 見るもの、聞くものすべてが日本と違うドイツに渡り、ベルリン市フィリップ街23番地のシャンブル・ガルニーに下宿した。五階建のアパートの三階の部屋で、当時ここには、日本からの留学生などが多く下宿をしていて、原子物理学の長岡半太郎博士などもその一人であった。
コッホ博士のもとでのツベルクリン研究の一年は過ぎ、明治25年(1892)4月、高鳴る胸をじっとおさえて、山極先生はベルリン大学のウィルヒョウ研究室のドアをたたいた。
山極先生は30年後の大正10年(1921)10月13日、東京大学病理学教室で開かれたウィルヒョウ生誕百年祭で、そのときの初対面の思い出をつぎのように語っている。 『−始めてお目にかかったウィルヒョウ先生は、ドイツ人としてはむしろ小柄な方で、まず中肉中背、その穏やかな姿には、ちょっと意外な感じがしました。ウィルヒョウ先生の研究室には、世界各地から送られてきた頭蓋骨や骨片がところ狭しと置き並べられていました。その研究室のかたすみにおられるウィルヒョウ先生の席におずおず近づくと、ウィルヒョウ先生がつと立ち上がり、自分の方へ近寄って来られるので、思わず一、ニ歩あとへさがりました。 するとウィルヒョウ先生は、手を振られて、「それはいけない。進歩的な国民はいつでも、前へ前へと心がけなければならない。」と申されたので、ハッとしたことを、今でも記憶しております。……』 30年前のことを、まるで昨日のできごとのように思い出しているがよほど感激が大きかったのであろう。
ウィルヒョウ先生は、学問が優れていたばかりでなく、人格もきわめて円満・高潔な人であった。その信条は、「いつも人のためになることを、地道に実行せよ。」ということであった。そして、「その日のことは、その日のうちに済ませて明日には延ばさない。」ということをきびしく実行していた。山極先生が、その一生涯を「すべての人を愛する」という理想で生きぬいたのは、この恩師ウィルヒョウ先生の影響を強く受たからであろうといわれている。
もちろん、病理学研究で受けた影響は、測りしれないほどのものがあった。とくに恩師ウィルヒョウ先生の長年にわたる研究の成果である「細胞病理説」「細胞刺激説」をウィルヒョウ先生の直接の門下生として、学び取ることができたということは、山極先生の留学中の最大にして最高の収穫だったといえよう。
ヨーロッパの巨星の光は、これから山極先生の心にともされ続けることになった。