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上田に生まれる〜少年時代〜

山極先生は文久3年(1863)2月23日、上田市の小巷鎌原(こちまたかんばら)(通称裏鎌原)で生まれた。父は上田藩士山本順兵衛政策といい、苗字帯刀は許されてはいたが、下級武士であったので、禄高(ろくだか)(藩主からもらっていた給与)もあまり高い方ではなかった。母は、同じ上田藩士の下級武士の林利太夫という人の三女でともといった。兄弟は4人で、長兄は彦太郎、次兄は(きゅう)次郎、その次が勝三郎先生で、その下に末子という妹があった。

文久3年といえば、尊王攘夷運動が盛んなころで、長州藩や鹿児島藩などでは、外国船を砲撃したり、イギリスの艦隊と戦いを起こすなどして、いろいろなできごとが起こり、幕府も大きく動揺していたときである。

やがて、幕府も倒れ、明治維新となり、武士という身分は廃止されたのでそれまで武士であった人たちはいままで藩主からもらっていた家禄(家に代々伝わった給与)もなくなりその生活はひじょうに苦しくなった。とくに、下級武士であった人たちの生活の困難さは格別で、先生の家もたいへん苦しい生活を送らなければならなかった。博士が5歳のころである。

父は、家族の生活を少しでも支えようとして、寺子屋を開いて、子どもたちにいろいろと勉強を教えた。はじめのころはお弟子たちも多く集まって来たが、明治5年(1872)に、全国に小学校がおかれるようになると(学制発布)、弟子も一人減り、二人減りして、せっかくの寺子屋も衰える一方であった。その後いろいろの職業についたが、どれもこれも思うようにならず、山本家の生活は、貧乏になるばかりであった。夜、遅くまで手内職を続ける母のかせぎもわずかなもので、貧しい生活をどうすることもできなかった。

このように、家計の苦しさをまのあたりに見ながら、貧乏の苦しさを身をもって体験した少年勝三郎の胸には、どんな考えが去来したことだろうか。

写真 山極勝三郎の生家の一部
上田市中央西一丁目(鎌原)に現存している勝三郎の生家山本家の一部(茶室)。
勝三郎は、文久3年2月23日(西暦1863年4月10日)、上田藩士山本順兵衛政策の三男として生まれた。この建物は、上田では数少ない武家住宅の貴重な遺構でもある。
〔和田智晴氏所有〕

写真 生家跡の標柱と説明板
左後方に生家の一部が現存している。