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東京大学時代(1/3) 〜少年時代〜

当時、山極家は東京に移住していたので、上田公立中学校を卒業するとすぐ、先生も東京に出た。

東京に出た先生は、まずドイツ語学校に入学してドイツ語を学び、明治13年(1880)12月に東京大学医学部予科に入学した。そして明治17年(1884)の正月、山極家の長女包子(かねこ)と結婚、同年12月に東京大学医学部本科に入学、21年11月医学部の全課程を修了し、医学部を卒業した。

この間、上田の実父山本政策(まさつね)の死(明治16年6月)と、包子との間に生まれた長男一郎の死(明治21年1月30日に生まれ、同年8月18日に病死)という度重なる悲しみが先生をおそった。

働き手を失い、母親の女手一つとなった上田の実家の生活は苦しくなる一方であった、それを聞くにつけても“早く一人前の医師にならなければ”と自分にむち打ち勉学に励むのであった。

在学中の成績はきわめてよく、褒賞給付金(ほうしょうきゅうふきん)(学業の優秀な人に与えるごほうびのお金)をもらったり、特待生として認められたり、卒業の時の成績は一番であったといわれている。

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東京外国語学校成績表 明治13年(1880)
明治12年(1879)3月、中学を卒業すると上田を離れて上京、私立のドイツ語学校を経て東京外国語学校(現東京外語大学)に入学してドイツ語を学ぶ。ここでも1番の成績を修め、褒賞金も付与される。東京外国語学校は明治6年に設置され、小学教科卒業後専門学校の予備教育を行うことと、通弁(通訳)を養成することを目的としていた。4年制だが2年のコースもあった。 勝三郎は、明治12年(1879)1月に旧上田藩御典医の山極家に養嗣子となり、山極姓となった。

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写真 褒章給費金の付与状及び特待生許可状
東京大学医科大学予科・本科在学中における勝三郎の成績は極めて優秀であった。そのため、明治16年から褒賞給付金を受け、明治19年から卒業までは特待生となった。なお、明治19年に帝国大学令が公布され東京大学は帝国大学と改称した。

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