名胡桃城と小田原の役
 沼田領問題は、その後、豊臣秀吉のあっせんで、天正17年(1589)7月、それを分割して、沼田城を含む3分の2の地を北条へ、真田氏にゆかりの深い吾妻郡と名胡桃なぐるみ城は真田の領分と決まり、昌幸は替地として、伊那郡箕輪の地を与えられることとなった。
 しかし、その年11月、沼田城の北条兵が、名胡桃城を襲ってこれを占領する、という事件が起こった。
 豊臣秀吉はこれを口実として、小田原攻めの軍を起こすのである。翌18年7月、小田原城は落ち、関東の雄北条氏は滅び、秀吉の全国統一が達成される。
 名胡桃城争奪戦は、この日本史的な事件の直接の導火線となったのであった。
名胡桃城跡 / 名胡桃城代鈴木主水の墓 / 天正17年(1589)11月21日 真田昌幸宛豊臣秀吉書状 / 天正18年(1590)3月8日 真田信之宛豊臣秀次書状 / 天正18年(1590)4月14日 真田昌幸・同信之宛豊臣秀吉書状

伏見城普請
文禄慶長の役出陣