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ホーム > 大学教授、医学博士として > 人物紹介『市川厚一』

市川厚一 (1888〜1948)

山極先生
市川厚一肖像
「市川厚一先生生誕百年 
兎耳人工発癌の跡をたずねて」
(久葉昇『日本獣医学雑誌』第26号 1990)
東京大学医学図書館所蔵より

明治21年(1888)茨城県雨引村(現真壁郡大和村)で生まれる。東京府立第一中学校を卒業後、東北帝国大学農科大学(後の北海道帝国大学)畜産学科へ進んだ。大正2年(1913)、同校を卒業後は旧制大学院に進み、直ちに東京帝国大学に特別研究生として国内留学した。東京帝国大学において山極勝三郎のもとで助手として癌の研究に携わることとなった。

人工癌発生実験は困難の連続であったが、市川は忍耐と努力で山極の研究を支え、遂に世界初の人工癌生成に成功する。実験成功の喜びを山極が「癌出来つ意気昂然と二歩三歩 曲川」と詠んだ時、市川は「世捨人三五の糧に生くるとも鏡下に見ゆるものは錦繍 北極」と返歌したと伝えられる。当時市川は三五(15円)の学費を借金しながら、交友も断って研究に打ち込んでいた。「北極」は山極が市川に与えた号である。

大正8年(1919)、獣医学博士号を授与され、北海道帝国大学畜産学科講師となる。同年5月25日、勝三郎とともに学士院賞を受賞した。大正11年(1922)に、農学部畜産学科第二部比較病理学講座(現北海道大学獣医学部比較病理学教室)が創設されるとその担当となり、欧米各国への出張を経て、大正14年(1925)初代教授に就任した。

昭和4年(1929)、わが国初の対癌協会となった北海道対癌協会を発起人の一人として設立し理事長に就任。事務所は比較病理学教室に置かれた。対癌社会運動として、ラジオ、新聞、講演会、映画上映会などにより積極的な啓蒙活動を行い、北海道を今日に至る対癌先進地へと導いた。

昭和21年(1946)に病を得て退官し、同23年死去。市川の後任として昭和22年に教授に就任したのは教え子の山極三郎(勝三郎の三男)であった。

「比較病理学」の教室名は、「獣医病理学は基礎医学にも貢献する学問領域である。」との市川の持論から命名されたもので、その精神は今日も北の大地で脈々と受け継がれている。

写真 写真
市川教授の使用していた顕微鏡
〔北海道大学大学院獣医学研究科
 比較病理学教室所蔵〕
ラジオ放送で「癌の話」について語る市川教授
昭和3年(1928)。
〔「市川厚一先生生誕百年特集」北海道大学大学院獣医学研究科 比較病理学教室所蔵より〕