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学生教育、医学教育書の執筆(1/4) 〜大学教授、医学博士として〜
明治28年(1895)頃の山極先生。
体の調子が少しでもよくなると、先生は学校に出かけて、学生たちの指導に当たった。
着飾るということもなく、いつも質素な身なりであった。古めかしい洋服と使い古した中折帽(なかおれぼう)、冬になると無造作に襟まきを首にまいて登校するというのが先生であった。
朝8時に人力車で家を出て、午前9時から12時までの3時間の講義、そして、午後は1時間くらい教授室の入口に「午睡中(ごすいちゅう)」の札をかけ、いすをベット代わりにして静かに休まれるという日課が多かった。
先生の講義は、内容が豊かで、学生たちに語りかけるように分かりやすく進められた。やや、含み声ではあったが、ときには額に流れる汗をふきながら、クルズス(材料を示しながら講義)をやり、講義を進める先生の熱心な姿からは、病弱であるという様子は少しも感じとられなかったといわれている。反対に周囲の先生方の方で『もしや体にさしさわっては……』と心配するほうであったともいわれる。
授業の準備をきちんとやり、学生たちの使う十数台の顕微鏡(けんびきょう)の一つ一つの標本を実に要領よく石盤(せきばん)にまとめては、クルズスの指導に熱心に当たった。
医学の研究上のこととなると、まるで人が変わったかのような厳しさがあり、学生たちの書いた論文も一字一句もゆるがせにされず、細細と修正の指導の朱書きを入れ、何回も書き直しを命令されるほどであった。それだけに、学生たちには、近寄りがたい先生というように思われがちであったが、学生たちが勇気を出して質問に行くと、ただ質問に答えるということではなく、研究のやり方、調査のし方などを細かく話され、“自分の力で、できるだけ調査をしてみることが、研究の心を育てるのだ。”ということを知らず知らずの間に教え込まれていた。
■ 『病理總論講義』第三版・第九版 教授に就任した勝三郎が執筆した著作。上・中・下の三巻からなり、初版上巻は明治28年(1895)10月に刊行された。病理学の教科書としても使用され、約20年にわたりほぼ毎年増補改訂された。表紙には「山極勝三郎」「病理」の印が押されており、勝三郎が教室で使用していたものであることがわかる。 〔東京大学医学図書館所蔵〕 |