Logo
サイトマップ
ホーム > 少年時代 > 小中学校時代

小中学校時代(2/3) 〜少年時代〜

そして、明治11年(1878)1月、自分の進路について激励をくれた校長先生の勧めもあって、上田公立学校(後の高等学校)に入学し、漢字・数学・英語と理学(理科)の勉学に寸暇を惜しんで励んだ。それもそのはずである。勝三郎少年にとっては、中学や大学に合格するということだけが目的ではなかったのである。“世界中の人のためになる仕事をしよう”と胸の奥深くに燃え続ける大望は、一日一日の学校生活をむだに過ごすことを許さなかったのである。

苦しい生活を過ごしながらも、毎朝夕、自分を学校へ送り出し、また、帰宅を待っている父母のやさしいまなざしの奥には、自分にかける期待が秘められているのを見逃すことができなかった。ときには、それが祈りのようにも感じられた。

ところがこのころ、一生を決定するような一つの重大なできごとが起きた。

それは、当時、勝三郎少年の担任であった正木直太郎先生(後の長野師範学校長で、正木不如丘(ふにょきゅう)の実父)が、ある日、こんな話を持ち出したのである。
「山本、お前をぜひ養子に欲しいという家があるが、どうだ。行かないか。」

勝三郎少年は、あまりの突然な話にびっくりした。今、自分が考えていることは、あの授業生のころに立てた大望−−世界の人のためになる仕事をしようという望みのために、今は何よりも勉強あるのみということだけだ。とても、養子なんてことは考えている余裕がなかったのである。

彼は正直に自分の気持ちを正木先生にお話をして養子のことをお断わりをしたのであった。しかし、正木先生はなかなか承知してくれない。
「なるほどね。お前の気持ちもわかるが……。でもね、先方の家は御典医といって、かつては上田藩の殿さまの診察をしてきた家なんだよ。お前を見込んで、ぜひ養子に欲しいと言ってきているんだよ。養子に行けば、当然、医業を受け継ぐことになろう。世の中には、医者などというものは、つまらないものだという考えもあるが、人の命を救う尊い仕事なんだよ。人類の不幸といわれている病気から人を救い、助けてくれる人は医者以外にはこの世にいるかね。先方ではお前を大学に進ませ、ゆくゆくは、西洋に留学させたいとも言っているんだよ。どうだろう?山本君。」

←123→