ツベルクリンの研究 〜研究と実績〜
明治24年4月(28歳)、
ドイツ留学直前の山極先生。
先生は明治24年4月に出発しベルリン大学のウィルヒョウのもとに留学した。この留学の本来の目的はコッホの発表したツベルクリンの調査だった。
コッホは、結核菌を発見するなどして、世界第一の細菌学者だった。このコッホが明治23年8月の国際学会で、モルモットの結核を完全に治せる薬を発見したと発表したので、世界中が大騒ぎになった。そのころわが国では第一回の帝国議会が開かれており、24年2月に次のような建議が出されて承認された。「現在、コッホのところには北里柴三郎がいっているし、坪井次郎も行くそうだが、それでは足りない。コッホの薬(あとでツベルクリンと名付けられた)は危険だということだから、大学から三人を派遣し、帰国したらそのやり方を十分に開業医などに教える必要がある。もしも試験病院が必要ならば大学病院に追加することですむだろう。そこで開業医などに二、三ヶ月研究させ、その治療行為を政府が許可するようにしたらよい」というものだった。
ここに名前の出てくる北里も東大医学部の卒業生である。明治16年に卒業し内務省に入った。北里の熊本時代の友人に緒方正規(まさのり)がいた。緒方は北里より早く上京し、医学部を卒業、ドイツ留学をすませ、わが国に細菌学を導入した。緒方は北里に細菌学の手ほどきをし、コッホへの紹介状を書いた。その緒方が18年4月に脚気の病原菌を発見したと発表しており、北里はドイツから、緒方の脚気菌は誤りだと批判した。そのため北里は東大関係者の反感をかった。これが始まりで北里は、母校と対立したままの生涯を送ることになる。北里は、結核の薬を発見したコッホのところで研究しているということで有名になり、大きな期待をかけられるようになった。
議会の建議にしたがって東大から宇野朗、佐々木政吉の二教授と山極先生(当時、助教授)が派遣された。先生は、ツベルクリンを研究すれば、そのあとは病理学を研究して差し支えないという内約で留学した。帰国したのは明治27年5月である。
北里は留学中に優れた業績を挙げ明治25年5月帰国、凱旋といってもよいような大歓迎を受けた。しかし東大は、教授陣の一人として北里を受け入れなかった。北里のための私立の伝染病研究所が、長与専斎、福沢諭吉、実業家の森村市左衛門らの援助によって、25年11月に開かれた。すべてが民間からの寄付でまかなわれた。この研究所はのちに国立となって内務省の所管となり、さらに大正3年には抜き打ち的に文部省に移管されて東大の研究所になる。これは大正年間における医学界最大の事件と呼ばれた。
結核治療薬としてのツベルクリンに関するコッホの仕事は不完全なものだった。コッホが急いでこれを国際学会に発表したのは、ドイツの学問を世界に誇示しようとして、文部官僚が強要したためであった。山極先生らがドイツに着いたときには、すでにツベルクリンは前ほど使われなくなっていた。結核患者の死体解剖を見ることが出来なかったので先生は主として動物実験を行った。結局、ツベルクリンは期待どおりの薬でないことが明らかになるが、結核の診断には有効であることがわかり(ツベルクリン反応)、この方面で多くの研究が展開する。
一方、北里は伝染病研究所の所長を務めるかたわら、福沢の後援でつくられた自分の「養生園」において長い間ツベルクリンを用いて結核の治療を行い、多くの患者を集めた。
山極先生はドイツ留学から帰国後、ウィルヒョウにならって「デモンストラチオン(示説)」を学生教育に取り入れた。これは、死体材料を学生に示しながら、病歴を参考にして病理学的解説を行うものである。もちろん顕微鏡も使用された。この斬新な教育方法はわが国の医学校の模範になった。