信州神川合戦の事

写本リーダー

現代語

信州神川合戦の事

 天正十三年(一五八五)八月二日、真田昌幸は家康公へ手切れの返答をした。これを聞かれた家康公は 「安房守が言う旨もその道理があるには似ているが、我既に他所にて替地を出そうと申しているのであり、安房守の領地を一円に取り上げるというのではない。どうしても沼田を北条家へ渡すことを迷惑に思うならば幾度も訴訟すべきなのに、そうではなくして家康の手を離れ敵対の色を立てるのは言語を絶した不届きである。急ぎ退治せよ」と、諸大将を選んで信州上田の城へ向けられた。家康公も軍兵を率いて甲州若神子まで出馬された。上田の城へ馳せ向かう先手の人々には、鳥居彦右衛門元忠・大久保七郎右衛門忠世・同治右衛門 忠佐(ただすけ)岡部(おかべ)治郎右衛門正綱(まさつな)・同弥二郎長盛(ながもり)・平岩七之助親吉(ちかよし)柴田(しばた)七九郎重政(しげまさ)を大将として、そのほかに保科弾正忠(だんじょうちゅう)正久・矢代越中守正信・三枝(さいぐさ)平右衛門守勝・曽根内匠助(たくみのすけ)ら大小数多(あまた)、信州の先鋒衆諏訪安芸守(あきのかみ)頼忠をはじめ下条・知久・遠山・大草らを案内者として、総勢七千余騎であった。
上田へも「浜松勢、多く向かう」と聞こえてきたので、昌幸は謀をめぐらし、手勢は言うまでもなく多くの甲州衆(旧武田家の家臣)や願行寺などという出家をはじめ郷民らに至るまで、皆防戦の用意をさせた。この時、上田に来ていた伊勢の御師(おし)(護符や暦などの配布を業とする神職) で広田武大夫という者が「日ごろのご厚情に報い申そう」と言って籠城の仲間に加わった。かれこれ合わせ雑兵ともに二千には足らない人数ではあったが、昌幸は勝れた大将であるので思いも寄らない謀を用意して籠城した。そして、矢沢三十郎頼貞・海野喜兵衛を使者として越後の上杉家へ加勢を請われた。上杉景勝はこれを許し、 塩尻口(上田市と坂城町の境、鼠宿辺り)まで後詰(ごづ)めの軍兵を出張らせた。また上州沼田の城には矢沢薩摩守頼綱を大将として、沼田の七人衆下沼田豊前守・恩田伊賀守・ 発智(ほっち)三河守・恩田越前守・和田主殿助(とのものすけ)・久屋勝五郎・岡野加賀守・金子美濃守・木曽甚右衛門をはじめとして大勢を(こ)め置いた。
天正十三年(一五八五)八月、家康公の先手は鳥居・大久保・岡部・平岩を大将として、その勢七千余騎で長瀬河原(上田市長瀬)から猫の瀬を渡って国分寺表(上田市国分付近)へ押し寄せ、上田の城へと詰め寄せた。安房守昌幸はかねてからの謀として、五間に三間の千鳥掛けを三か所ずつ結わせ置いて、神川を前にして陣を備え、「もし敵勢が川を越えて来たならば一せり合いして軽く引き取れ。そうすれば敵は食い付いてくるであろう。その時存分に引き入れよ」と 細々(こまごま)と密談し、人数二、三百を引き分けて嫡子源三郎信幸・二男源次郎信繁(幸村)に添え、上田の城から 三十丁(約三・三キロメートル)ばかり出張らせた。そして、安房守昌幸自身は手回りの軍勢を合わせ五百人ばかりで上田の城に控え、大手の門を閉じ 矢倉(櫓)に登り、甲胃(かっちゅう)も着けずに祢津長右衛門を相手に碁を打っていた。

○ある説によると、この時昌幸の碁の相手をしていたのは来福寺と祢津長右衛門の二人であると云々。

さて信幸・信繁が指図のように神川の端まで出張ったところ、敵勢が川を越えて押し出してきたので黒坪村(上田市国分黒坪)という所でせり合いがあった。信幸・信繁は敵を追い崩し首を多く討ち捕り、勝ちに乗じて馬を進め追い討とうとした。板垣修理(しゅり)と来福寺の二人が「前々からの謀をお忘れになられたか」と言って馬の口にすがりついて止めたので、両将は「実にも(確かに)」と直ちに聞き入れて軍兵を引き揚げた。すると、思ったとおり敵勢は食い付き、千鳥掛けをも構わず両将を討ち捕らえようと後を追い慕ったが、両将は横曲輪(よこぐるわ)へと引き取った。そして、物見の者どもが「敵、既に間近に迫って参りました」と注進すると、昌幸は「敵、来たらば斬れ。斬れ」と言ってなお碁を打って時を過ごしていた。浜松勢は初め両大将が弱々しく引き取り、今城の際まで詰め寄せたのにさしたることもないので「城中は小勢なり」と見(あなど)って、総軍一度に(とき)をつくり我先に乗り入ろうと争い進んだ。その時に、真田昌幸は「時分は良きぞ」と、手回り五百ばかりの軍兵を左右に進ませて大手の門を開かせた。敵兵は勢いに乗って、門の際まで押し詰めて来た。真田昌幸は采配を取って下知し、無二無三に突いて掛かり討って出た。その上、先ほど横曲輪へ引き取った信幸・信繁兄弟が備えを固め、横(やり)に突いて掛かり町屋に火を掛けた。折から風が(はげ)しく吹き、火は四方に飛び散った。煙の下から信幸が(ぼう)(先に犛牛(ぼうぎゅう)の尾を付けた旗竿、犛牛はヤクのこと)を取って「掛かれ。者ども」と下知した。また、前々から合図を定めて四方の山々谷々林の中に伏せておいた郷民(ごうみん)たち三千余人が、城中からの太皷の音を聞くと同時に鬨を合わせ、紙旗を差し連らね鉄砲を撃ちながら山々谷々林の中より一斉に起こり立って、寄せ手の後陣へ遠慮もなく討って掛かった。町中へ攻め入った寄せ手の兵らは、攻め寄せる時には苦にもならなかった町中の千鳥掛けが、逃げる時になると邪魔になり進退の度を失ってしまった。ここで浜松勢は大勢討ち滅ぼされた。信幸・信繁両大将は染ケ馬場(上田市国分の北に展開する染屋台地の土手、馬場=はば=土手)から横鎗に突いて掛かり追い崩し、かなわずに引き退く浜松勢を国分寺(信濃国分寺付近)まで追い討ちにし、残らず討ち取った。浜松勢は後ろに大きな川があるため、引き退きかねて死を決意した。それと見た安房守が軍兵を引き揚げたので、敵勢も川を越えて引き揚げた。その時、鳥居彦右衛門元忠が軍兵を引いて川を渡ろうと川中へ入った。それと同時に、安房守が旄を取って「掛かれ。掛かれ」と下知したので一斉に突いて掛かった。折から神川の水がおびただしく増し、敵兵の半分以上が水におぼれてしまった。

○ある記によると、神川は元は加賀川と言った。後に白山権現を真田の山(四阿(あずまや)山)の上に勧請(かんじょう)したが、その山の中から流れ出る川ということから神川と改めたと云々。

 中でも、鳥居彦右衛門の軍兵が多く討たれたという。味方の軍勢が勝ちに乗って神川を越えて追って行くと、大久保平助忠教(おおくぼへいすけただたか)<後に彦左衛門と号す>が一騎取って返し、名のり掛けて馬を下り、鎗を取って待ち構えていた。これを見た兄の治右衛門忠佐も同じく取って返した。さらに、その兄七郎右衛門忠世も同じく馳せつけ、金の揚羽蝶の指し物を差し上げて敗軍の士卒を集めた。すると、天方喜三郎・天野小八郎・松平七郎右衛門・十塚久助・後藤惣平・足達善一郎・太田源蔵・松井弥四郎・気多甚六郎・江坂茂助らをはじめとして、百騎ばかりが馳せ集まった。大久保七郎右衛門忠世は大将の器量のある侍なので敗軍に気を屈しないで、小高い場所に打ち上って百騎ばかりを従えて控えていた。味方の軍兵も勝ち誇って、逃げる敵を追い討ちにした。浜松勢の中から「小見孫七郎」と名のって一騎取って返し、三度まで返し合わせて戦ったが、ついに取り込められ討たれてしまった。浜松勢の大将大久保七郎右衛門忠世が新手を入れ替えて討って掛かると、上田勢は初めから手痛く働き疲れていたので、浜松勢に掛け破られて引き退き敗軍しかけた。その時、望月主水(もんど)が大音声(おんじょう)に「言う甲斐もなき者どもかな。今引き返してこの泥の中へ踏み込まれ、討ち死にして名を汚すのは無念な次第である。いずれは死なねばならぬ命である。彼様(かよう)に逃げるよりは返し合わせ、(しかるべき敵)(あ)って討ち死にせよ」と呼ばわって引き返した。そこで、皆がこのことばに励まされて一緒に取って返し、突いて掛かり浜松勢を追い崩した。この時、浜松勢の岡部弥二郎長盛は八日堂村(上田市国分国分寺)近くの染ケ馬場に人数を集めよく(しの)いでいた。上田勢の日置五右衛門<豊後守の子、則隆>は大久保忠世を討ち取ろうと相験(あいじるし)(味方であることを互いに確認するための目印)を取り捨てて、浜松勢の中へ紛れ入って機をうかがっていた。依田助十郎も同様に五右衛門に続いていた。大久保平助忠教はこれを見て「ただ今来た兵の中で、萌黄(もえぎ)糸の(よろい)筋冑(すじかぶと)を着けて葦毛(あしげ)馬に乗った武者は、真田の軍士と思われるぞ。もらさずに討ち取れ」と声高に呼ばわり、鎗を取って突いたが日置五右衛門の乗った馬の前輪に突き当たっただけだった。五右衛門は馬で駆け抜け、大声で「大久保治右衛門(忠佐)を討とうと計って来たが、天晴(あっぱ)れ運の強き士かな」と言い捨て、味方の陣へ駆け戻った。依田助十郎も敵の中を切り抜けようとしたが、ついに大河内善一郎に討たれてしまった。このような中、安房守昌幸父子は軍勢を引き揚げた。その時に家老が「もう一息攻め掛けたならば、浜松勢に足は留めさせません。何国までも追い討ちましょう」と言った。昌幸はこれを制して「日は既に夕日に及んでいる。その上に味方は小勢である。終日の軍に入れ替わる勢もなく疲れている。戦は今日だけと思ってはならない」と言って軍兵を引き揚げ、父子列座して討ち取った首の実検をしたところ千三百余りあった。そのほか、水におぼれた者は数がわからないほどであった。上田勢は(おぼれた者)二十一人。死者は雑兵共に四十余人。(主立った者で)討ち死にしたのは依田一人であった。この時、粉骨を尽くして馳せ回った者どもには、望月主水・板垣修理亮(しゅりのすけ)信形・来福寺・石井舎人(とねり)・木村土佐・荒木肥後・高槻備中・瀬下若狭・大熊五郎左衛門・同勘右衛門・金井豊前隆清・同金右衛門清実・上原(なにがし)・三輪琴之助・水科新助・春原某・高原某・成沢勘左衛門・小屋右衛門七・高野某・車某・池田清兵衛・小泉源五郎・塚本某・白倉武兵衛・吉田庄助・田口文左衛門・窪田某・堀田角兵衛・矢野孫右衛門・松崎五右衛門・原三右衛門・同監物・同右近・祢津長石衛門・祢津志摩・市場茂右衛門・日置五右衛門らのほか数多あった。
この折に、沼田の七人衆が上田へ飛脚を寄こした。それに対する信幸の返書が残っている。それには、次のような記述がある。

◎信幸の書状

芳しい書状を拝見した。遠州より(徳川勢が)出張って来たが、去る二日国分寺において一戦し、千三百人余りを討ち取り(こちらの)備えは十分である。そこで、南衆(北条家)がそちらの表に攻め働くに違いない。ついては堅固の備えを頼み入る。恐る恐る謹んで申し上げた。

(うるう)八月十二日

                   真田源三郎

 

                   信幸 判

下豊

<下沼田豊前守のことなり>

恩伊

<恩田伊賀守のことなり>

木甚

<木曽甚右衛門のことなり>

恩越

<恩田越前守のことなり>

発参

<発智三河守のことなり>

(この書状には)沼田七人衆のうち五人の名があるので、このほかにも一、二通の書状があったものと考えられる。南衆とは北条家のことである。この時北条氏直も大軍を率いて沼田の城を攻めたが、城代矢沢薩摩守頼綱や大熊 靭負(ゆきえ)・沼田七人衆が堅固に防いだので、仕方なく軍兵を引き返した。この沼田七騎の子孫たちは、今皆家来となって当家に仕えている。この信幸の書状は恩田長右衛門の家に伝えられている。

○ある記によると、家康公は「急ぎ真田を退治せよ」と、大久保忠世・鳥居元忠・平岩親吉・岡部長盛らを大将として七千余人を上田表へ向かわせた。真田安房守は「敵、大勢向かう」と聞くより先に、近辺の立木を(な)作毛(さくもう)を刈り取って城の門を差し固め、足軽をさえ一人も(外へ)出さなかったので弱々しく見えた。寄せ手はこれを見侮って攻め道具をも用意せずに、総軍一度に鬨をつくって我先にと争い進んだ。その時、安房守父子は千余人を率いて「どっ」とわめいて突いて出た。昌幸はかねてから郷民らと語らい、合図を定めて四方の林の中から鬨を合わせ、ことごとく起こり立って寄せ手の中へ攻め入らせた。そのため、寄せ手は大きく騒ぎ動じて一戦もせずに敗軍してしまった。上田勢は勝ちに乗って「逃がさん」と追い討った。その時に大久保七郎右衛門忠世と平岩七之助親吉はたった二人で踏みとどまり、追い来る敵と突き戦をした。これを見た二人の郎党七、八人が引き返し、主人の前に出て戦った。本田主水正と尾崎左衛門尉兄弟は殿(しんがり)をし、城兵が追い来れば追い戻し、さんざんに戦った。しかし、真田父子が真っ先に進み手痛く敵を追い散らしたため、ついに尾崎兄弟は討ち死にしてしまった。徒立(かちだ)ちの兵たちは真田勢にもみ立てられ、右往左往しながら崩れ立ったが、大久保と平岩はなお(こら)えて防ぎ戦った。酒井与九郎も踏みとどまって戦った。鳥居彦右衛門元忠の配下の軍兵たちが追い立てられて逃げるのを見て、戸石(砥石)(上田市上野) から真田勢が突いて出て、逃げる敵を追い討ちにした。浜松勢の本田主水・乙部藤吉郎・畔柳孫左衛門は無双の弓取りであるので返し合わせて踏みとどまり、矢種を惜しまず射ているうちに城兵が少し猶予したので、神川を越えて引き退いた。遠州勢は、これまでの退き口に屈強の兵三百余人が討たれた。大久保忠世は金の揚羽蝶の指し物を高々と差し上げさせ、敗軍の士卒を集めたが百騎は超えなかった。しかし、大久保忠世は気を屈しないで高い所に備えを立て、追い来る敵を待った。真田父子も川を前にして備えを固め控えていた。大久保忠世は平岩親吉に軍使を遣わして「敵の軍勢が寄せてこない間にもう一戦しよう」と申し伝えた。平岩は「郎党が多く討ち死にし、小勢なればかなうことではない」と返答した。今度は鳥居に使いを遣わしたところ、鳥居は「士卒が大勢討ち死にして小勢である。味方の総勢を合わせても、勝ち誇っている敵には対応することが難しい。仮にいったんは利を得たとしても、後日の軍に利はないだろう。これに加え味方の兵はことごとく臆してしまった。ただ、ここに陣取って、この軍の次第を浜松へ申し送り、加勢を請うて戦うのがよいだろう」と言って使者を返した。大久保は大いに憤り、「臆病心のついた人には評定の甲斐がない」と独り言を言って、なおも口惜しく思ったのであろうか、手勢百騎ばかりをそろえて川端に出張り、備えを固め控えていた。真田父子は何を思ったのか、軍兵を引き払い上田の城へ入ってしまった。そこで、大久保も備えを引いた。

〇一説によると、この時三州(三河)勢は国分寺表へ押し寄せた。昌幸は、まず小路の中に三か所ずつ(やらい)を結わせた。大手は嫡子源三郎信幸、搦手(からめて)は昌幸、その軍勢合わせて三千余人であった。城中には二男源次郎信繁を残しておき、持ち場を固めて沼田・吾妻の勢を矢沢(上田市殿城矢沢)の山陰に隠し置き「合戦が始まった最中に笹井村(上田市古里笹井)黒坪村(上田市国分黒坪)へ打ち出て敵の跡を取り切れ」と策を定めた。そして、まず「常田出羽守・高槻備中守両人は、大宮表(上田市常田付近)へ打ち出て敵を引き入れよ」と、総勢三百ばかりが打って出て鉄砲を撃ち掛けた。すると、敵も足軽を出し鉄砲を撃ってきた。弱々と対応しては引き退き、追い来ればまた追い返して時を移した。そして「時刻は良し」と先手の勢が鬨をあげて一斉に攻め掛かると、敵も総掛かりに掛かって戦った。しばらく対応して引き退くと、寄せ手は勝ちに乗って追い掛けてきた。いよいよ(こら)えかねた様子で柵の木の内へ逃げ込むと、予想どおりに付け入って我先にと攻め入ってきたので脇小路へ引き退いた。その時町屋へ火を掛け、煙の下から源三郎信幸が采配を取って「掛かれ。者ども」と下知した。今か今かと待っていたところなので「どっ」と立ち上がり、まっしぐらに突いて掛かった。搦手からも鬨を合わせ、寄せ手の後ろを取り切ろうと染屋村(上田市古里染屋)に沿って押し出した。先ほど引き揚げた常田出羽と高槻備中の二人が、南の方から回って大宮表へ掛け出た。町中へ攻め入った寄せ手の軍勢は、火は掛かるわ手しげく攻められるわで、かなわず引き退いたが、柵の木に急かされ煙に迷い、度を失って大半は討たれてしまった。城方は勝ちに乗じて攻め掛け攻め掛け、風のごとくに乱れ雲のごとくに集まり、ここを先途と攻め戦った。この時、沼田勢は黒坪村の上へ打ち出て、後ろから鉄砲を撃ち掛けて方々へ敵を打ち散らしてわめき叫んで攻めたので、ついに寄せ手は打ち負けて東を指し神川を越えて引き退いた。大久保平助は一騎取って返し、名のり掛けて鎗を合わせた。これを見た兄の治右衛門も引き返し、百騎ばかりになった。昌幸父子は馬を乗り回して下知し、軍兵を引き揚げた。家老どもが「どこまでも追い掛けて討ち取りましょう」と言うと、昌幸は制して「日も夕陽に及んだ。その上味方は小勢であり、終日の戦に入れ替わる勢もなく、ことごとく疲れている」と言った。そして、討ち取った首を実検したところ、その数は五百三十あった。昌幸はこの趣を早馬で、塩尻口の上杉家の大将に「軍には討ち勝った。今夜敵陣へ夜討ちをするつもりである。急いでその手の軍兵を後詰めとして出されたい」と申し遣わした。しかし、上杉勢は少しも塩尻口を出ようとはしなかった。そこで、川を前にして矢来を結わせ備えを固めて篝火(かがりび)をたかせ、兵が終日の戦に疲れているので昌幸父子は三人で馳せ回り、厳しくその怠りを戒めて夜を明かした。その後は互いに川を境に陣取り、日々せり合いがあったと云々。

 

原文

信州神川合戰之事

天正十三年乙酉八月二日眞田昌幸ハ家康公ヱ手切ノ返答有ケレハ、家康公是ヲ聞玉ヒテ安房守カ申旨モ其理有ニ似リト云トモ我既ニ他所ニテ代地ヲ出サント申成ハ安房守カ領地ヲ一圓ニ取放スト云ニハ非ス、是非ニ沼田ヲ北條家ヱ相渡コトヲ迷惑ニ思ヒナハ幾度モ訴訟有ヘキ事成ヲ左ハ無シテ家康カ手ヲ離レ敵對ノ色ヲ立ルハ言語ニ絶タル不届也、急退治セヨト諸大將ヲ撰テ信州小縣郡上田城ヱソ向レケル、家康公ニモ軍兵率テ甲州若神子迄御出馬有、上田城ヱ馳向家康公ノ先手ノ人々ニハ鳥居彦右衛門元忠・大久保七郎右衛門忠世・同治右衛門忠佐・岡部治郎右衛門正綱・同彌治郎長盛・平岩七之助親吉・柴田七九郎重政ヲ大將トシテ、其外ニ保科彈正忠正久・矢代越中守正信・三枝平右衛門守勝・曾根内匠助等大小數多ニテ、信州ノ先鋒衆諏訪安藝守頼忠ヲ初トシテ、下條・知久・遠山・大草等ヲ案内者トシテ都合其勢七千餘騎ニテ上田表ヱ馳向ヒケリ、上田ヘモ濱松勢多ク向フト聞ヘケレハ、昌幸謀ヲ廻ラシ手勢ハ云ニ及ハス、其頃ハ甲州衆モ多願行寺ナト云出家ヲ始郷人等ニ至ルマテ皆防戰ノ用意ヲナシケリ、此時ニ伊勢ノ御師ニ廣田武大夫ト云者上田ニ來リ居タリシカ、日頃ノ御情ヲ報シ申サントテ、籠城ノ列ニソ加リケリ、彼是合テ雑兵トモニ二千ニハ足サル人數也ケレトモ、昌幸勝レタル大將成ハ異ル謀ヲ儲ケテ籠城有、又隣國頼ントテ越後國ヱ矢澤三十郎頼貞・海野喜兵衛□□ヲ使トシテ上杉家ヱ加勢ヲ乞頼レケレハ、上杉景勝許容有テ塩尻口迄軍勢ヲ出サレケリ、又上州沼田ノ城ニハ矢澤薩摩守頼綱ヲ大將トシテ、沼田ノ七人衆下沼田豊前守・恩田伊賀守・發智三河守・恩田越前守・和田主殿助・久屋勝五郎・岡野加賀守・金子美濃守・木曽甚右衛門ヲ始トシテ大勢ヲ籠置レケル、時ニ天正十三年乙酉八月ニ家康公ノ先手鳥居・大久保・岡部・平岩ヲ大將トシテ其勢七千餘騎ニテ長瀬河原ヨリ猫ノ瀬ヲ渡テ國分寺表ヱ押寄上田ノ城ヱト詰寄ケリ、安房守昌幸兼テ謀事ニ三間五間一處ツゝ千鳥掛ヲ結置テ、偖人數二三百ヲ引分テ嫡子源三郎信幸・二男源次郎信繁ニ相添テ上田ノ城ヨリ三十丁許出張有、神川ヲ前ニ當テ陣ヲ備ヘ若敵勢川ヲ越テ來ナハ一糶合シテ輕ク引取ヘシ、左有ハ敵喰付來ルヘシ、其時存分ニ引入候ヘト具ニ謀ヲ密談有テ人數ヲ引分テ安房守昌幸ハ手廻ノ勢ヲ合テ五百人計ニテ上田ノ城ニ扣ラル、大門ヲ閉矢倉ニ登甲冑ヲモ帯セラレス津長右衛門ヲ相手ニテ碁ヲ打テコソ居ラレケル
或説ニ此時ニ昌幸ノ碁ノ相手ニハ來福寺ト津長石衛門ト兩人也卜云々
去程ニ信幸・信繁ハ指圖ノ如ク神川ノ此方迄出張有ケルニ、敵勢川ヲ越テ押來黒坪村ト云處ニ於テ糶合有、敵ヲ追崩シ首數多討捕信幸・信繁勝ニ乗馬ヲ進テ追討ントシ玉フ處ヲ、板垣修理并ニ來福寺兩人馬ノ口ニスガリ付テ、兼テノ謀ヲハ御忘有ケル哉トテ馬ノ口ヲ取テ引返シケレハ兩將實ニモトテ輕々ト引取人數ヲ引上ラレケレハ、案ノ如ク敵勢喰付千鳥掛ヲモ構ハス兩將ヲ討捕ント慕來ル、兩將ハ横曲輪へ取、時ニ物見ノ者共昌幸ヘ敵既ニ間近寄來ル由ヲ注進シケルニ、昌幸ハ碁ニ打入ラレケルカ敵來ラハ切レ々々トテ尚打テ時ヲ移サレケルニ、濱松勢ハ始兩大將弱々ト引取今城ノ際迄詰寄ケレトモ、指タル事モ無ニ依テ城中ハ小勢也ト見侮リテ惣軍一度ニ鬨ヲ作り我先ニ乗入ラント爭ヒ進、時ニ眞田昌幸時分ハ能ソト手廻五百計ノ人數ヲ左右ニ進テ大手ノ門ヲ開セラル、敵兵ハ勢ヒニ乗テ門際近押詰ケル、時ニ眞田昌幸采配ヲ執テ下知ヲナシ無二無三ニ突テ掛討テ出ラレケル處ニ最前横曲輪ヘ引入ラレタル源三郎信幸兄弟備ヲ固テ横鎗ニ突蒐り町屋ニ火ヲ掛ラレケル處ニ、折節風烈ク吹ケレハ火四方ニ飛散ケル、烟ノ下ヨリ信幸旄ヲ執テ蒐レ者共下知セラレ、相圖ヲ兼テ郷民トモ三千余人ヲ相語ラヒ相圖ヲ定テ四方ノ山々谷々林ノ中ニ伏置ケルカ彼者共城中ヨリ討テ出ル太鼓ノ音ヲ聞ト等ク、同ク鬨ヲ合テ紙旗ヲ指連テ鐡炮多ク打出シ山々谷々林ノ中ヨリ悉ク起リ立テ寄手ノ後陣ヘ會尺モ無討テ蒐ル、町中ヘ攻入タル寄手ノ勢兵始詰寄ケル時ニハ苦ニモ成サリシカ逃ル時ニ成テハ彼町中ノ千鳥掛ニ行掛リテ進退度ヲ失ヒケル、是ニ於テ濱松勢多ク討亡サレケル、信幸・信繁兩大將ハ染カ馬場ヨリ横鎗ニ突テ掛リ追崩サレケレハ叶ハスシテ引退ヲ國分寺迄追討シテ悉ク討取ケル、遠州勢ハ後ニ大河有テ引退兼テ死ヲ究タル体ヲ安房守推量有テ人數ヲ引揚ラレケレハ敵モ川ヲ越ヱテ引ケル、時ニ鳥居彦右衛門元忠人數ヲ引テ川ヲ渡ラント川中ヱ人數ヲ入ト等ク又安房守旄ヲ取テ蒐レ々ト下知有ケレハ又一同ニ突テ掛リケル、折節神川ノ水夥ク増タル時ナレハ敵兵過半ハ水ニ溺レケル

或記云、神川ハ元ハ加賀川ト名ク、後ニ白山權現ヲ眞田山ノ上ニ勸請有、其山ノ中ヨリ流レ出ル川ナル故ニ神川ト改メケルト云々

中ニモ鳥居彦右衛門カ人數多討レシト也、味方ノ軍勢勝ニ乗テ神川ヲ越テ追行處ニ、大久保平助忠教<後ニ彦左衛門ト號>、一騎取テ返シ名乗掛テ下リ居キ鎗ヲ取リ扣ヘタリ、是ヲ見テ兄ノ治右衛門忠佐同ク取テ返ス、其兄七郎右衛門忠世モ同ク馳付テ金ノ騰羽ノ蝶ノ指物ヲ差上テ敗軍ノ士卒ヲ集ケルニ、天方喜三郎・天野小八郎・松平七郎右衛門・十塚久助・後藤惣平・足達善一郎・太田源藏・松井彌四郎・氣多甚六郎・江坂茂助等ヲ始トシテ百騎計馳集ケルカ、大久保七郎右衛門忠世ハ大將ノ器量有侍成ハ敗軍ニ氣ヲ屈セス、小高處ニ打上リ百騎計ヲ從テ扣タリ、味方ノ軍兵モ勝誇テ逃ル敵ヲ追討ニス、濱松勢ノ中ヨリモ小見孫七郎ト名乗テ一騎取テ返シ三度迄返合戰シカ終ニ取籠ラレテ討レケル、濱松勢ノ大將大久保七郎右衛門忠世新手ヲ入替テ討テ蒐ルニ、上田勢ハ始ヨリ手痛ク働キ勞レタル上成ハ是勢ニ掛破ラレテ半引退キ既ニ敗軍ニ及ハントセシ時ニ、望月主水大音上ケ申ケルハ、云甲斐ナキ者共哉今引返シテ此泥ノ中ヘ踏込レ討死シテ名ヲ汚サンハ無念成次第也、兎角ニ死ヘキ命也、ケ様ニ迯ンヨリハ返合テ敵ニ逢テ討死セヨト呼テ引返シケレハ何レモ此詞ニ勵サレテ一同ニ取テ返シ突テ蒐リケレハ又濱松勢ヲ追崩シケリ、時ニ濱松勢ノ中岡部彌治郎長盛ハ八日塔村ノ邊ノ染カ馬場ニ人數ヲ立能怺ケル、時ニ上田勢ノ中ヨリ日置五右衛門<豊後守子則隆>、大久保忠世ヲ討取ントテ相驗ヲ取捨テ濱松勢ノ中ヘ紛入窺ヒ寄ケル、依田助十郎モ五右衛門カ馬ニ續テ来リケルニ大久保平助忠教是ヲ見テ、只今來ル兵ノ中ニ萌黄糸ノ鎧ニ筋冑ヲ着シテ葦毛馬ニ乗タル武者ハ眞田カ軍士ト覺ルソ洩サス討取レト高聲ニ呼ハリ、鎗ヲ取テ突ケレトモ日置五右衛門カ乗タル馬ノ前輪ニ突當タリ、五右衛門ハ馬蒐抜テ大音ニ申ケルハ、大久保治右衛門ヲ討ント計來リシカ天晴運ノ強キ士哉ト云捨テ味方ノ陣ヘ蒐戻ス、依田助十郎モ敵ノ中ヲ切抜ントシケレトモ、終ニ大河内善一郎ニ討レケル、爰ニ於テ安房守昌幸父子ハ軍勢ヲ引揚ラル、時ニ家老申ケルハ今一息追駈ナハ濱松勢ニ足ハ留サセ間敷候也、何國迄モ追討ヘシト云ケレトモ、昌幸制シテ日既ニ夕日ニ及タリ、其上ニ味方ハ小勢也、終日ノ軍ニ入替ル勢無シテ疲タリ、戰ハ今日ニ限ルヘカラストテ人數ヲ引揚、討取處ノ首共昌幸父子列坐ニテ實檢有シニ首數千三百余也、其他水ニ溺レシ者ハ數知ス、上田勢ニハ廿一人、死人雑兵共ニ四十余人、討死セシハ依田一人也、此時ニ粉骨ヲ盡シテ馳廻ル者トモニハ望月主水・板垣修理亮信形・來福寺・石井舎人・木村土佐・荒木肥後・高槻備中・瀬下若狭・大熊五郎左衛門・同勘右衛門・金井豊前隆清・同金右衛門清實・上原某・三輪琴之助・水科新助・春原某・高原某・成澤勘左衛門・小屋右衛門七・高野某・車某・池田清兵衛・小泉源五郎・塚本某・白倉武兵衛・吉田庄助・田口文左衛門・窪田某・堀田角兵衛・矢野孫右衛門・松崎五右衛門・原三右衛門・同監物・同右近・津長右衛門・津志摩・市場茂右衛門・日置五右衛門等能戰フ、此外ニモ數多有、此節沼田之七人衆ヨリ上田ヘ飛脚ヲ指越、則チ信幸返書有、其文ニ云
芳札披見、仍從遠州出張候間、去二日於國分寺遂一戰千三百余討捕備存分ニ候、然者南衆其表可相働候、於然堅固之備憑入候、恐々謹言

 閏八月十二日

 

眞田源三郎

 

      信幸 判

下豊

<下沼田豊前守事也>

恩伊

<恩田伊賀守事也>

木甚

<木曽甚右衛門事也>

恩越

<恩田越前守事也>

發参

<發智三河守事也>

沼田七人衆ノ内五人ノ名有外ニ一二通モ有ヘシ、南衆トハ北條家ノコト也、此時ニ北條氏直モ大軍ヲ率ヒテ沼田ノ城ヲ攻ケレトモ城代矢澤薩摩守頼綱并大熊靭負沼田七人衆トモニ堅固ニ持堅ケルニ依テ北條氏直モ人數ヲ引返サレケリ、此沼田七騎ノ子孫トモ今皆家人ト成テ當家ニ仕フ、此信幸ノ書状ハ恩田長右衛門カ家ニ傳ハレリ
或記ニ云、家康公急キ眞田ヲ退治セヨトテ、大久保忠世・鳥居元忠・平岩親吉・岡部長盛等ヲ大將トシテ七千余人上田表ヘ向ヒケリ、眞田安房守ハ敵大勢向ト聞ヨリモ先近邊ノ立木ヲ薙キ作毛ヲ苅取城ノ門ヲ差堅メ足輕一人ヲタニモ出サネハ弱々ト見ヘニケリ、寄手是ヲ見侮リテ攻具ヲモ用意セス、惣軍一度ニ鬨ヲ作リ我先ニト爭ヒ進、時ニ安房守父子千余人ヲ引率シテ咄ト喚テ突出タリ、昌幸兼テ郷民等ヲ語ラヒ相圖ヲ定テ四方ノ林ノ中ヨリ鬨ヲ合悉起立テ寄手ノ中ヘ攻入ケレハ、寄手大キニ騒動シ一戰ニモ及ハス敗軍ス、上田勢ハ勝ニ乗テ遁サント追討ケル、時ニ大久保七郎右衛門忠世・平岩七之助親吉唯二人蹈止リテ慕敵ト突戰ス、是ヲ見テ二人カ郎黨七八人引返シテ主人ヲ隔テ相戰フ、本田主水正・尾崎左衛門尉兄弟ハ後殿シテ城兵追來レハ追戻シ散々ニ戰ヒケルカ、眞田父子ハ眞先ニ進手痛ク敵ヲ追散シケルニヨリ尾崎兄弟討死ス、歩立ノ兵共ハ眞田カ勢ニ揉立ラレ右往左往ニ崩立、大久保・平岩猶怺テ防キケル、酒井輿九郎□□蹈止リテ戰ケル、鳥居彦右衛門元忠カ手ノ軍兵共モ迫立ラレテ逃ケルヲ戸石ノ城ヨリ眞田カ勢突テ出迯ル敵ヲ追討ニス、濱松勢ノ中ニ本田主水・乙部藤吉郎・畔柳孫左衛門ハ無双ノ弓取成ハ返合テ蹈止リ、矢種ヲ惜マス射ケル程ニ城兵少シ猶豫シケレハ神川ヲ越テ引退ク、遠州勢是迄ノ退口ニ究竟ノ兵三百余人討レケリ、大久保忠世ハ金ノ上羽ノ蝶ノ指物ヲ高々ト指上サセ敗軍ノ士卒ヲ集メケルニ百騎ニハ過サリケル、爾レトモ大久保忠世ハ氣ヲ屈セス高キ處ニ備ヲ立テ追來ル敵ヲ待居タリ、又眞田父子モ神川ヲ前ニ當テ備ヲ堅メテ扣ヘタリ、大久保忠世ハ平岩親吉カ方ヘ軍使ヲ以申ケルハ敵ノ軍勢馳來サル間ニ今一戰スヘシト也、平岩カ返答ニ郎黨多ク討死シ小勢ナレハ叶フマシトソ答ヘケリ、大久保又使ヲ以テ鳥居ニ談シケレハ、鳥居答テ士卒大勢討死シテ小勢也、味方ノ惣勢ヲ合テモ勝誇タル敵ニハ對様シ難シ、譬ハ一旦ハ利ヲ得タルトモ後日ノ軍ニ利有マシ、加之味方ノ兵悉臆シタリ、唯此處ニ陣取此軍ノ次第ヲ濱松ヘ申送り加勢ヲ請テ戰フヘシトテ使ヲ返シケレハ、大久保大ニ憤リ臆病心ノ付タル人ニハ評諚スルモ詮ナシト獨言シ、猶モ口惜クヤ思ケン手勢ヲ揃ヘテ百騎計川端ニ出張シ備ヲ立テ扣ヘケルカ、眞田父子モ何トカ思ケン軍兵ヲ引拂テ上田ノ城ヘ入ケレハ大久保モ備ヲ引ケル
一説ニ此時ニ三州勢ハ國分寺表ヘ押寄ル、昌幸ハ先小路ノ中ニ三ケ所ニ柵ヲ結セテ大手ハ嫡子源三郎信幸・搦手ハ昌幸其勢合テ三千余人也、城中ニハ次男源次郎信繁ヲ殘置役所ヲ固クシテ沼田・吾妻ノ勢ヲハ矢澤ノ山陰ニ隱シ置、合戰始リタラン最中ニ笹井村・黒坪村ヘ打出テ敵ノ跡ヲ取切ヘシト、合圖ヲ定テ先常田出羽守・高槻備中守兩人ハ大宮表ヘ打出テ敵ヲ引入ヘシトテ総勢三百計打出鐡炮ヲ打掛ルニ、敵ヨリモ足輕ヲ出シ銕炮ヲ打テ弱々ト會尺シ引退テ追來ラハ又返シテ時ヲ移ス、扨時刻能成ヌトテ先手ノ勢モ鬨ヲ揚テ一同ニ馳駈ルニ敵モ相掛リニ蒐テ戰フ、暫會尺シテ引退ニ寄手勝ニ乗テ迫掛ル、彌怺ヘ兼タル体ニテ尺ノ木ノ内ヘ迯入ヲ付入ニセントテ我先ニト責入、兼テ期シタルコト成ハ脇小路ヘ引退、時ニ町屋ヘ火ヲ掛テ烟ノ下ヨリ源三郎信幸采配ヲ執テ蒐レ者共ト下知有ケレハ疾シ遲シト待儲タル事成ハ咄ト立上リマツシクラニ突テ掛ル、搦手ヨリモ鬨ヲ合寄手ノ跡ヲ取切ント染屋村ニ添テ押出ス、時ニ最前引タル常田出羽・高槻備中兩人モ南ノ方ヨリ廻テ大宮表ヘ掛出ル、町中ヘ責入タル寄手ノ勢ハ火ハ掛ル手繁ク攻ラレテ叶ハスシテ引退クニ、尺ノ木ニセカレ烟ニ迷ヒ度ヲ失ヒ大半討レ引退ク、城方ハ勝ニ乗テ責掛々々風ノ如クニ亂レ雲ノ如クニ集リ爰ヲ先途ト攻戰フ、斯スル處ニ沼田勢ハ黒坪村之上ヘ打出テ跡ヨリ、鐡炮ヲ打掛テ方々ヘ敵ヲ打散シテ叫喚ンテ攻ケル間、終ニ寄手打負テ東ヲ指テ引ケルヲ、神川ヲ越テ進ミ行ケル處ニ大久保平助一騎取テ返シ名乗掛テ居テ鎗ヲ合ス、是ヲ見兄ノ治右衛門モ返ス間百騎計ニ成、時ニ昌幸父子ハ乗廻シテ下知ヲナシ軍兵ヲ引上ル、家老共申ハ何處迄モ追掛テ討捕ント云ケレハ、昌幸制シテ日モ夕陽ニ及タリ、其上味方小勢ナレハ終日ノ戰ニ入替ル勢ナクシテ士卒悉ク疲レタリトテ、討取首共實檢有ニ其數五百三十有、昌幸此趣ヲ早馬ヲ塩尻口ニ扣タル上杉家ノ加勢ノ大將ヘ通シ、軍ニハ討勝テ候也、今夜敵陣ヘ夜討ヲ致ヘク候也、急其手ノ人數ヲ押付ラレ候ヘト申ヤラレケレトモ上杉勢ハ終ニ塩尻口ヲ出サルニ付テ、前ニ川ヲ當ヤライヲ結セ備ヲ立替テ篝火ヲ焼セ兵終日ノ戰ニ疲レタレハ、昌幸父子三人ニテ馳廻嚴シク下知シ其怠リヲ戒メテ夜ヲ明サレタリ、其後ハ互ニ川ヲ境陣取日々ニ糶合有ケリト云々