秀忠公上田城へ発向の事

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秀忠公上田城へ発向の事

 石田治部少輔三成が叛逆を企てている旨を告げられた家康公は、下野の小山(小山市)から武州江戸の城へ人数を入れられて後、九月一日石田を征伐するために江戸の城を進発し東海道を西上された。さてまた、秀忠公は野州(下野)宇都宮から直ちに中山道をお上りになられて、路次のついでなればと信州へ発向された。上田の城を攻め落としてから上洛しようと、これも九月一日に宇都宮を進発されたのである。従う大将の先陣は 榊原(さかきばら)式部大夫康政(やすまさ)浅野弾正少弼長政(あさのだんじょうしょうひつながまさ)、後陣は大久保(おおくぼ)相模守忠鄰(ただちか)本多(ほんだ)佐渡守政信(まさのぶ)酒井(さかい)右兵衛大夫重忠(しげただ)本多美濃守忠政(原文は「忠次」)・真田伊豆守信之・仙石越前守忠俊・石川玄番頭(げんばのかみ)康長・日根野徳太郎吉重・(もり)右近大夫忠政(ただまさ)・牧野右馬允貞成をはじめ旗本の勇士ら、その勢三万八千七十余騎であった。上州を経て同月四日に秀忠公は信州小諸の城に到着され、伊豆守信之を御前に召されて「我、ここまで 馬を寄せる(軍勢を率いて来た)とはいえ、いささか思うところあって、安房守方へ和睦のために遠山九郎兵衛を差し遣わすつもりである。そこで、なんじが方からも父安房守に意見を申すことのできる者を添えて遣わせ」と言われた。信之はかたじけなき旨を伝え、坂巻夕庵法印を遠山九郎兵衛に添えることとした。遠山は上田に来て秀忠公の仰せを「その方がこのたび別心(ふたごころ)を抱いたことについて、もしや恨みなどがあるのかとも考えたが思い当たらない。もしそういうことがあるならばその事情を申せ。改めて味方をするならば、本領安堵の上にご褒美を下されるであろう」と伝えた。昌幸は「かたじけないおぼし召しです。委細かしこまり奉りました。この趣を旧臣どもにも申し聞かせて、こちらからご返答申し上げます」と言って、とやかくと日数を過ごし、そのうちに城の普請など諸事落ちのないように準備した。その上で、再度右の使者に対面し「秀忠公のおぼし召しの趣は身に余り、かたじけなくかしこまり奉っておりますが、秀頼公(豊臣秀頼)の仰せとして老中並びに奉行石田治部(治部少輔三成)方から(味方をするように)申し遣わされたについては、主命逃れ難く存じ、かくのとおりの次第です。ついては今後両人が参ることば無用です」と申し切って使者を返した。

○ある記によると、九月四日の夜に秀忠公は信州小諸の仙石越前守の居城にお着きになられて、本多美濃守忠政と真田伊豆守信之の両人を御前に召されて、上田の城への使者を命じられた。それは「安房守が秀忠公の陣下に来るべきか、また固く城を守るべきか否か」を問わせるためであった。両人が上田に着くと、安房守は両使を国分寺に待たせ置いて、城よりやって来て対談し柔和な顔で饗応した。これは籠城のためであったと云々。

秀忠公は、この旨をお聞きになられ「さては安房守め、我を偽ったな」と大いに怒られて上田の城へ攻め寄せられた。その時に、昌幸は信繁<左衛門佐>を伴って北の門より物見のために出た。そして、城内が狭いということで (とりで)として構えた願行寺口へ、大手の門から入ろうとした。牧野右馬允貞成の軍兵どもが昌幸父子と見て急に突いて掛かったところ、昌幸は信繁に「まず(なんじから門の)内へ入れ」と言い、信繁は昌幸に「まず(ご自分から門の内へ)お入り下さい」と父子の辞儀をして時を移した。そうこうしているうちに敵勢が間近く攻め寄せて来たので、願行寺口の侍大将池田長門が進み出て「甲斐もないご父子のお辞儀であることかな。急いでお入りあれ」と言って昌幸の馬の口を執って門内へ引き込んだので、信繁も続いて内へ入った。そのうちに敵が押し寄せ、門の(かんぬき)を差しかねるほど急に押し込み、地輻(じふく)(門の最下部に取り付ける横材)の下から敵味方ともに突き合った。しかし、この口の侍大将池田長門は大剛の者なので、手の者どもを下知し敵を突き返し堅固に守備していた。その上に、先年神川の合戦の時に大いに(おく)れを取った遠州・三州(遠江と三河)の軍士らであるので、昌幸の軍慮を恐れたのであろうか後方から崩れ立って引き退いた。その後はしばらくせり合いはなかった。
ある時、用事があって城中から百姓どもに足軽を少々添えて城下へ出したところ、秀忠公のお旗本朝倉藤十郎・辻忠兵衛・小野治郎右衛門・中山助六・戸田半平・斎藤久右衛門・太田善太夫の七騎が抜け駆けして右の足軽・百姓どもとせり合った。百姓とはいっても日ごろ勝ち軍に慣れた者どもであるので、七騎の侍を追い払い難なく城中へ引き取った。かの七騎の侍を真田の七本鎗と号し、真田の家来何の(なにがし)と鎗を合わせたなどと誇らしげに言う士もあると聞くが、当家の侍に右の七人と鎗を合わせたという者を聞いたことがない。右の七人とせり合ったのは当家の足軽・百姓どもである。
そうこうしているうちに、秀忠公は昌幸の謀に陥れられてわずかの小城一つを大軍にもかかわらず攻め落とすことができずに、関ヶ原の大切な合戦に遅れられたため家康公のご機嫌は悪かったが、上方の合戦はことごとくご利運となった。そして「その表は打ち捨てて上洛あれ」との旨を飛脚で告げられたので、秀忠公は人数を引き揚げられ、上田の押さえとして森右近大夫忠政を川中島に留め置かれて上方へ上られた。昌幸は城を出て、千人には足らない人数ではあったが六、七里、後を追い慕った。

○ある記によると、秀忠公は上田の城を攻められるために信州小諸の城へ到着されたが、真田安房守の武勇を惜しまれて、嫡子伊豆守信之と本多美濃守忠政の二人を上田の城へ遣わされて和睦のことを仰せられた。昌幸は右の両使を城下の国分寺に待たせ置いて対面し「秀忠公の仰せに従いましょう」と言っていろいろと饗応し、その間に兵糧を取り入れ、柵を構え、所々に修理を加えて、人夫も家来も一つになって要害を修築した。両使は国分寺で安房守の お請け(返答)を待っていたが、少しも沙汰がないので九月六日の夕方にこちらから「お請けが遅い」と申し入れると昌幸は「昨今の間返答を引き延ばしたのは、籠城の支度に不足のことがあったためである。最早残すところもなく支度した。美濃守は縁者であるし、伊豆守は(せがれ)であるから助けてやりたい者ではあるが、敵方なればそれもかなわない。ただ今軍兵を差し向ける。用意をして待て」と申し送った。美濃守も伊豆守も大いにあきれて「この小勢では敵対するのは難しい。その上お使いとして来たのであり、その子細をもご報告せずに戦を企てるのは不忠と同じである」と相談して、夜中に上田から小諸へ馳せ帰って右の旨を申し上げた。秀忠公は大いに怒られて「この上は安房守を討ち滅ぼしてから上洛いたそう」と言われて、夜中に小諸を進発された。従う人数は森右近大夫・榊原式部大夫・仙石越前守・酒井宮内大輔・本多佐渡守・大久保相模守・牧野右馬允・本多美濃守・真田伊豆守・石川玄蕃頭をはじめとして、その勢都合三万八千七十余騎で上田の城へ押し寄せた。そして、酒井宮内大輔・牧野右馬允・大久保治右衛門らの手から人夫を出して城下の作毛を刈らせた。これは城兵を引き出すための計略であったという。城中からこれを見て足軽二百人が討って出、かの者どもを追い払おうと戦った。これを見て、今度は本多美濃守の手から大勢が助けに出て外構えの木戸まで押し込んで戦った。その時に、本多の郎党の浅井小右衛門・永田角右衛門という者が先駆けに進んで戦った。このようなところへ、城中から木戸を開けて突いて出た。寄せ手の先陣が突き立てられたところへ、城中から左衛門佐が大勢を従えて秀忠公の旗本へ一文字に突いて掛かった。するとどうしたことであろうか秀忠公の前備えはすっかり動揺し、左衛門佐は勝ちに乗ってこれを突き崩した。秀忠公は怒られて「わずかの勢に対し逃げるということがあるか。返し合わせて戦え」と歯噛みして下知された。旗本の軍兵の中から中山助六・太田善太夫・朝倉藤十郎・小野典膳・辻小兵衛・戸田半平・斎藤久右衛門の七人が踏みとどまり鎗を合わせて戦った。鎮目市左衛門も取って返し、かの者どもと同じく戦った。
〇一説によると、この時旗本の中から浅見藤兵衛・小栗治右衛門・小野治右衛門・中山勘解由・戸田半平・朝倉藤十郎・辻太郎助の七人が取って返し、北の門まで城兵を追い込んだと云々。
右の七人を上田七本鎗と号し、人々は褒めたたえた。その時に、牧野右馬允・大久保相模守の勢は粉骨を尽くして戦った。そして、左衛門佐が突き立てられ城中へ入ろうとしたところを寄せ手の兵どもが追いすがり、城へ入ろうと争い進んだ。安房守は城中からこれを見て、左衛門佐を救おうと門を開けて突いて出た。寄せ手もこれを先途と戦い、追い込めば追い出し、追い出せば攻め入り、三、四度もみ合った。寄せ手の兵が追い立てられ危うく見えたので、本多美濃守・大久保相模守の両人は馬を乗り回し、軍兵を下知し順々に引いた。安房守も軍兵を下知し城中に引いた。その後は遠巻きにして、しばらく軍はなかったと云々。
○ある記によると、慶長五年(一六〇〇)九月一日に秀忠公は軍勢を率いて野州宇都宮を進発された。二日に上州高崎に到着され、三日に松井田に到着された。四日には信州小諸の城に到着されて、本多美濃守忠政・真田伊豆守信之の両人に「なんじら上田の城に行って、真田安房守に我が麾下に来るべきか、また城を固く守るべきか否かを尋ねてこい」と命じられた。同日両人は小諸を発って上田にやって来た。安房守は両人を国分寺に入れ置いて饗応した。五日の夕方に両人が上田の城に入った時、安房守は「要害支度のために昨今仮にご命令に従ったが、その用意もしっかりできた。いささかもご命令に応じ難い。美濃守は伊豆守の 小舅(こじゅうと)であり伊豆守は我が子であるが、敵方であるので安穏にしておくわけにはいかない。しかしながら、その好みもあるので、今助けて帰す」と返答した。両人は小諸に帰ってその趣を報告した。秀忠公は大いに怒られて「それならば、踏みつぶしてしまえ」と言われた。六日の黎明に秀忠公は小諸を進発されて上田へ攻め寄せられ、旗を染屋の台に立てられた。武者奉行は大久保治右衛門忠佐であった。牧野右馬允・酒井宮内少輔の備えから軍兵を出して城下の稲を刈り、芦田下野守の部下依田肥前守・同源太は足軽を使って城兵を引き出した。その時に、真田安房守・同左衛門佐の両人は、兵を出し突き戦った。秀忠公の近習からも朝倉藤十郎・中山助六・戸田半平・鎮目市左衛門・太田善太夫・辻太郎助・斎藤久右衛門・小野治郎右衛門らを先頭にして進み、鎗を合わせ武勇を振るった。浅見藤兵衛・小栗治右衛門は、勇を励み城兵を追い入れた。そのため、安房守父子が中門から(城内へ)引こうとしたので、酒井宮内少輔の兵どもは食い付いてしきりに打って掛かった。城兵も踏みとどまって鉄砲を撃ち放って防いだ。酒井の足軽大将、隅山臼兵衛が先頭に進んで来るのを城兵が鉄砲で撃ち落とした。牧野右馬允・榊原式部大夫の兵らが進んで戦った。本多美濃守は士卒を下知し、進んで城中に入ろうとした。その時に、本多の家来の浅井小兵衛・永田角右衛門はよく戦った。真田父子は城中に引き取って門を閉めたが、寄せ手は壁に取り付いて乗り入ろうとした。このようなところに、大久保相模守と本多佐渡守が秀忠公へ「わずかの小城にご人数を費やされるのもいかがかと思われます。まず軍勢を率いられ、上方へお急ぎになられるのが道理にかないます」と申し上げたので、秀忠公は馬を小諸に返された。この日の朝に戸石<砥石>の城にいた真田の軍兵どもが城を (す)てて逃げ去った。冠者ケ岳<冠者ケ巖>の城は真田の大将池田出雲が守っていた。それを日根野徳太郎吉重と石川玄蕃頭康長が押し寄せて攻めた。しかし、池田出雲が謀をもって遮り、逆に襲ったので日根野・石川の勢は敗軍してしまった。八日に秀忠公は上田の押さえとして森右近大夫を小諸の城に残し置かれて木曽路を上ろうとされたが、本多佐渡守の (いさ)めに従って(真田領の)和田峠を越えず、(えん)行者(雨堺峠~大門峠)を越えられた。榊原式部大夫はその兵二千余人を引き分けて、直ちに和田峠を越え濃州(美濃)へ赴いたので、諸人は皆榊原の勇に感じ入ったと云々。
○ある記によると、秀忠公は上田の城を打ち囲み日々夜々に攻められたが、城中の兵は心を一つにして堅固に城を守り、折々突き出て戦ったので寄せ手の軍兵は退屈し「この城は簡単には落ちないだろう」と遠巻きにして日を送った。九月二十一日に家康公からの早馬の使者が上田表へ到着し、秀忠公へ「去る十五日に濃州関ヶ原において東西二つに分かれ合戦があったが、 坂西(大坂方)の諸大将一戦に利を失い、石田をはじめことごとく敗軍し、諸大将大勢が討ち取られて関東のご利運となった。その地には押さえを置いて急いで上洛せよ」との仰せを申し上げた。秀忠公が諸将を召されて評定をされたところ、いずれもが「この城を攻め落としてからご上洛なされるのがよいでしょう」と言った。秀忠公は「張本人の石田治部少輔が敗北した上は、この城もやがて降伏するだろう。軍勢を費やしても甲斐がない。ただ遠巻きにして城を守れ。決して攻めてはならない」と言われて、軍兵を多く残しておいて、木曽路を経て上洛されたと云々。

 

原文

秀忠公上田城ヱ發向之事

去程ニ石田治部少輔三成叛逆ヲ企ケルノ旨ヲ告有ケレハ、家康公ハ下野ノ小山ヨリ武州江戸ノ城ヱ御人數ヲ入ラレテ後九月朔日ニ石田ヲ征伐有ヘキ爲ニ江戸ノ城ヲ進發有東海道ヲ御上リアリ、偖又秀忠公ハ野州宇都宮ヨリ直ニ中山道ヲ御上リ路次ノ序ナレハ信州ヱ發向有、上田ノ城ヲ攻落シテ上洛有ヘシ迚是モ九月朔日ニ宇都宮ヲ御進發有、相從フ大將ニハ先陣ニ榊原式部太輔康政・淺野彈正少弼長政也、後陣ニ大久保相模守忠鄰・本多佐渡守政信・酒井右兵衛大夫重忠・本多美濃守忠次(ママ)・眞田伊豆守信之・仙石越前守忠俊・石川玄蕃頭康長・日根野徳太郎吉重・森右近太輔忠政・牧野右馬允貞成ヲ始トシテ其外旗本ノ勇士等其勢三万八千七拾余騎也、上州ヲ經テ同月四日ニ秀忠公信州小諸ノ城ニ着御有テ、伊豆守信之ヲ秀忠公御前ニ召レテ仰有ケルハ我此處迄馬ヲ寄スルトイヘトモ聊思慮有ナレハ安房守カ方ヱ和睦ノ爲ニ遠山九郎兵衛ヲ指遣也、依テ汝カ方ヨリモ父安房守ニ異見ヲモ申ヘキ者副テ遣スヘシト仰ケレハ、信幸ハ忝キ旨ヲ御請有テ即坂巻夕庵法印遠山九郎兵衛ニ相副ラル、遠山上田ニ來テ秀忠公ノ仰ヲ伸テ云ク、其方此度別心ヲ致ノ義若御恨ナト是有ニヤ思召當ラレス、若左モ有ハ其品ヲ申ヘシ、改テ御味方ヲ仕ル者ナラハ本領ノ上ニ御褒美ヲ賜ルヘシトノ趣也、昌幸御請有ケルニハ忝キ思召也、委細畏リ奉テ候也、此趣ヲ舊臣共ニモ申聞セテ是ヨリ御返答申上ヘシトテ兎ヤ角ト日數ヲ過シ、其内ニ城ノ普請等諸事相調ラレテ其上ニテ右ノ御使ニ對面有、秀忠公ノ御意ノ趣身ニ余リ忝畏リ奉テ候ヱトモ、秀頼公ノ仰トシテ老中并奉行石田治部カ方ヨリ中遣候ニ付テ主命遁難ク存斯ノ通ニ候也、爾レハ向後共ニ兩人参候コト無用也ト申切テ御使ヲソ返サレケリ

或記ニ云ク、九月四日ノ夜秀忠公ハ信州小諸仙石越前守カ居城ニ着御有テ、本多美濃守忠政・眞田伊豆守信之兩人御前ニ召レテ上田ノ城ヱ使節ノ旨ヲ命セラル、安房守秀忠公ノ陣下ニ來ル可歟、又堅ク城ヲ守ルヘキカ否ヲ問セラル、兩人上田ニ到ル、安房守兩使ヲ國分寺ニ入置テ城ヨリ來テ對談ニ及ヒ顔色柔和ニシテ饗應ス、是籠城ノ爲ナリト云々

秀忠公此旨ヲ聞シ召レテ、扨ハ安房守カ我ヲ訛リケルソ迚大ニ瞋リ玉ヒ先勢ヲ以テ上田ノ城ヱ攻寄玉フ、時ニ昌幸ハ信繁<左衛門佐>ヲ伴テ北ノ門ヨリ物見ノ爲ニ出ラレケリ、此城内狹シ迚砦ニ構ラレシ願行寺口ヱ大手ノ門ヨリ入ントセラレシ處ニ、牧野右馬允貞成カ軍兵共昌幸父子ト見シヨリ急ニ突テ掛リケルニ、昌幸ハ先信繁ニ内ヱ入リ候ヘト有、信繁ハ昌幸ヱ先御入リ候ヱト父子ノ時宜ニテ時ヲ移サレケル處ニ敵勢間近ク寄來ル故ニ願行寺口ノ侍大將池田長門進ミ出テ、詮ナキ御父子ノ御時宜ニテ候物哉、早々御入有ト云テ昌幸ノ馬ノ口ヲ執テ門内ヱ引込ニ依テ信繁モ續テ内エ入ケル、其内ニ敵押寄テ門ノ貫ノ木ヲ差兼ル程ニ急ニ押込テ地幅ノ下ヨリ敵味方共ニ突合ヒケリ、爾レ共此口ノ侍大將池田長門大剛ノ者也ケレハ手ノ者トモヲ下知シテ敵ヲ突返シ堅固ニ持堅メケリ、其上先年神川合戰ノ時ニ大ニ後レヲ取タル遠州・三州ノ軍士等ナレハ昌幸ノ軍慮ヲ恐レケル歟裏崩シテ引退ケリ、其後ハ暫ク糶合ハナカリケリ、或時用事有ニヨリ城中ヨリ百姓共ニ足輕少々相副テ城下ヱ出ス處ニ秀忠公ノ御旗本ヨリ朝倉藤十郎・忠兵衛・小野治郎右衛門・中山助六・戸田半平・齋藤久右衛門・太田善太夫七騎ニテ抜駈シ右ノ足輕・百姓トモト迫合ケル、百姓風情ノ者ノコト成トモ日頃勝軍ニ馴タル者トモ故ニ七騎ノ侍ヲ追拂難ナク城中ヱ引取ケル、彼七騎ノ侍ヲ眞田ノ七本鎗ト號シテ眞田家人何某ト鎗ヲ合タリ杯トル士モ有ト世ニ沙汰スルトイヱトモ當家ノ侍ニ右ノ七人ト鎗ヲ合タル者ヲ聞ス、右七人ト迫合シハ當家ノ足輕并ニ百姓共也、去程ニ秀忠公ハ昌幸ノ謀ニ随ヒ玉ヒテ纔ノ小城一ツヲ大軍ヲ以テ攻落サレス關ヶ原ノ大切ノ合戰ニ外レ玉ヱハ家康公御機嫌悪ク上方ノ合戰ハ悉ク御利運ニ成候也、其表ハ打捨ラレテ上洛有ヘキノ旨ヲ飛脚ヲ以告玉ヱハ、秀忠公御人數ヲ揚ラレ上田ノ壓トシテ森右近太夫忠政ヲ川中島ニ留メヲカレテ上方ヘ御登有ケルヲ昌幸城ヲ出テ千人ニ足ラヌ人數ヲ以テ六七里跡ヲ慕ケル

或記ニ云ク、秀忠公ハ上田ノ城ヲ攻ラレン爲ニ信州小諸ノ城ヱ着御有シカ眞田安房守カ武勇ヲ惜セ玉ヒテ、嫡子伊豆守信之ト本多美濃守忠政ト兩人ヲ上田ノ城ヱ遣サレ和睦ノ儀ヲ仰ラル、昌幸ハ右ノ兩使ヲ城下ノ國分寺ニ入置テ對面シ、秀忠公ノ仰ニ從フヘシトテ兩人ヲ種々ニ饗應シ、其間ニ兵粮ヲ取入柵ヲ振處々ノ修理ヲ加ヱ、人夫モ家人モ一ツニ成テ要害ヲ構ヱケル、兩使ハ國分寺ニ有テ安房守ノ御請ヲ相待ケレトモ、沙汰ナカリケレハ同六日ノ晩景ニ兩人カ方ヨリ御請遅シト申ケレハ昌幸返答ニ、昨今ノ間御返答延引申セシ子細ハ籠城ノ支度ニ不足ノコト候故也、最早殘ル處モナク支度セリ、美濃守ハ縁者ノコト也伊豆守ハ世忰ナレハ助ケ度者ナレトモ敵方ナレハ力無只今人數ヲ指向ル也、用意シテ待ヘシトソ申送リケル、美濃守モ伊豆守モ大ニ惘テ此小勢ニテハ敵對難シ、其上御使トシテ來リ、其子細ヲモ申サス戰ヲ企ナハ不忠ニ似リト相談シテ夜中ニ上田ヨリ小室ヱ馳歸テ右ノ旨ヲ言上ス、秀忠公大ニ瞋セ玉ヒテ此上ハ安房守ヲ討亡シテ上洛有ヘシ迚夜中ニ小室ヲ御進發有、相從フ人數ニハ森右近大夫・榊原式部大夫・仙石越前守・酒井宮内大輔・本多佐渡守・大久保相模守・牧野右馬允・本多美濃守・眞田伊豆守・石川玄蕃頭ヲ始トシテ其勢都合三万八千七拾余騎ニテ上田ノ城ヱ押寄玉フ、酒井宮内大輔・牧野右馬允・大久保治右衛門等カ手ヨリ人夫ヲ出シテ城下ノ作毛ヲ苅セケル、是ハ城兵ヲ引出スヘキ計畧也トソ聞ヱケル、城中ヨリ是ヲ見テ足輕二百人討テ出彼者共ヲ追拂ハント戰ケリ、是ヲ見テ本多美濃守カ手ヨリ大勢助ケ來リテ外構ノ木戸迄押込テ相戰フ、時ニ本多カ郎從ニ淺井小右衛門・永田角右衛門ト云者先蒐ニ進テ戰ケル、係ル處ニ城中ヨリ木戸ヲ開テ突出ル、寄手ノ先陣突立ラレケル處ニ城中ヨリ左衛門佐大勢ヲ從ヘテ秀忠公ノ御旗本ヘ一文字ニ突テ蒐ルニ、如何シタリケン秀忠公ノ御前備色メキ立ケルヲ左衛門佐勝ニ乗テ突崩シケル、秀忠公瞋リ玉ヒ僅ノ勢ニ對シ逃ルト云コトヤ有、返合テ戰ヘト牙ヲ噛テ下知シ玉ヘハ御旗本ノ軍兵ノ中ヨリモ中山助六・太田善太夫・朝倉藤十郎・小野典膳・小兵衛・戸田半平・齋藤久右衛門此七人踏止リ鎗ヲ合テ戰ヒケリ、鎭目市左衛門モ取テ返シテ彼輩ト同ク戰ヒケル
一説云、此時御旗本ヨリ淺見藤兵衛・小栗治右衛門・小野治右衛門・中山勘解由・戸田半平・朝倉藤十郎・太郎助七人取テ返シ北ノ門迄城兵ヲ追込シト云々
右ノ七人ヲ上田七本鎗ト號シテ人々稱美シケリ、時ニ牧野右馬允・大久保相模守カ勢共粉骨ヲ盡シテ戰ケレハ、左衛門佐突立ラレテ城中ヘ入ントスル處ヲ寄手ノ兵共追番テ城ヘ入ント爭ヒ進ム、安房守城中ヨリ是ヲ見テ左衛門佐救ン迚門ヲ開テ突出タリ、寄手モ爰ヲ先途ト戰ヒ追込ハ追出シ追出ハ攻入三四度揉合シカ寄手ノ兵追立ラレ危ク見ヘケレハ、本多美濃守・大久保相模守兩人馬ヲ乗廻シ軍兵ヲ下知シテ操引ニ引ケルニ、安房守モ人數ヲ下知シテ城中ニ引入ケル、其後ハ遠巻ニシテ暫ク軍ハナカリケルト云々
或記云、慶長五年庚子九月朔日ニ秀忠公軍勢ヲ率シテ野州宇都宮ヲ進發有、同二日上州高崎ニ着御有、同三日松枝(ママ)ニ着御有、同四日ニ信州小室ノ城ニ着御有テ本多美濃守忠政・眞田伊豆守信之兩人ニ命シ玉フテ云、汝等上田ノ城ニ至リ眞田安房守我麾下ニ來ルヘキ歟、又城ヲ堅ク守ルヘキ歟否ヲ尋來ルヘシト命シ玉フ、同日兩人小室ヲ立テ上田ニ到ル、時ニ安房守ハ兩人ヲ國分寺ニ入置テ是ヲ饗應ス、同五日ノ晩景ニ兩人上田ノ城ニ入時ニ安房守返答ニハ、要害支度爲ニ昨今仮ニ鈞命ニ從フ、其用意モ成就ス、聊貴命ニ應シ難キ也、美濃守ハ伊豆守カ小舅也、伊豆守ハ我子也トイヱトモ敵方成ハ安穩ニハ置ヘカラス、爾レトモ其好ミニ依テ今助ケ歸ス者也トソ申ケル、是ニ於テ兩人小室ニ歸テ其趣ヲ言上ス、秀忠公大ニ嗔セ玉ヒ、其儀ニ於テハ踏潰スヘシト嗔玉フ、同六日ノ黎明ニ秀忠公小室ヲ御進發有テ上田ヘ寄玉ヒ御旗ヲ染屋ノ臺ニ立ラレケル、武者奉行ニハ大久保治右衛門忠佐也、牧野右馬允・酒井宮内少輔カ備ヨリ人數ヲ出シテ城下ノ稲ヲ苅、芦田下野守カ部屬依田肥前守・同源太足輕ヲ蒐テ城ノ兵ヲ引出ス、時ニ眞田安房守・同左衛門佐兩人兵ヲ出シ突戰フ、秀忠公ノ御近習ヨリモ朝倉藤十郎・中山助六・戸田半平・鎭目市左衛門・太田善太夫・太郎助・齋藤久右衛門・小野治郎右衛門等先登ニ進ンテ鎗ヲ合武勇ヲ振フ、淺見藤兵衛・小栗治右衛門モ爰ニ來リ勇ヲ勵ミ城兵ヲ追入ケル、依テ安房守父子中門ヨリ引入ノ處ニ酒井宮内少輔カ兵共喰付テ頻ニ打テ蒐ル、城兵モ踏止テ鐡炮ヲ放シテ防キケリ、酒井カ足輕大將隅山臼兵衛先登ニ進ミケルヲ城兵鐡炮ヲ以テ打落ス、牧野右馬允・榊原式部大輔カ兵等進戰フ、本多美濃守士卒ヲ下知シテ進ンテ城中ニ入ントス、時ニ本多カ家人淺井小兵衛・永田角右衛門能戰フ、眞田父子モ城中ニ引取テ門ヲ閉ル、寄手壁ニ付テ既ニ乗入ントス、爾ル處ニ大久保相模守・本多佐渡守秀忠公ヘ申上ルハ僅ノ小城ニ御人數ヲ費サレンモ如何成ハ、先軍勢ヲ引入ラレ上方ヘ御急キ御尤ノ由ヲ申ニ依テ秀忠公御馬ヲ小室ニ入玉フ、此日ノ朝ニ戸石城<或ハ礪石>ニ居タル眞田カ軍兵共城ヲ棄テ迯去ル、冠者ケ嶽ノ城<或ハ冠者ケ巖>ハ眞田カ侍大將池田出雲カ守リケルヲ日根野徳太郎吉重・石川玄蕃頭康長押寄テ攻ケルニ、池田出雲謀ヲ以遮テ襲ヒ來リケレハ日根野・石川カ勢敗軍シケリ、同八日ニ秀忠公ハ上田ノ壓トシテ森右近ノ太夫ヲ小室城ニ貽留セラレテ木曽路ヲ登玉フカ本多佐渡守カ諌ニ依テ和田峠ヲハ越ラレス役行者ヲ通リ玉フ、榊原式部大輔ハ其兵二千余人ヲ引分ケ直ニ和田峠ヲ越テ濃州ヘ趣キケルニ諸人皆榊原カ勇ヲ感シケルト云々
或記云、秀忠公ハ上田ノ城ヲ打圍ミ日々夜々ニ攻玉ヘ共城中ノ兵心ヲ一ツニシテ堅固ニ城ヲ相守リ折々突出戰ケレハ寄手ノ軍兵退屈シテ此城早速ニハ落ヘカラス迚遠巻ニシテ日ヲ送ケルニ、九月廿一日ニ家康公ヨリ早馳ノ御使上田表ヘ馳着テ秀忠公ヘ申上ケルハ、去ル十五日濃州關ヶ原ニ於テ東西二ツニ分レ合戰有シニ坂西ノ諸大將一戰ニ利ヲ失ヒ石田ヲ始悉ク敗軍シ諸大將大勢ヲ討取玉ヒテ關東ノ御利運ト成レリ、其地ニハ壓ヲ置レテ急キ上洛シ給ヘトノ仰ヲ申上ル、秀忠公ハ諸將ヲ召テ御評諚有ケルニ何レモ申上ルハ、此城ヲモ攻落シテ御上洛成サレ爾ルヘシト申ス、秀忠公仰ケルハ張本人ノ石田治部少輔カ敗北スル上ハ此城モ頓テ降伏セン、人數ヲ弊シテ詮ナシ、唯遠巻ニシテ城ヲ守レ必攻コト有ヘカラスト軍兵多ク殘シ置レテ秀忠公ハ木曽路ヲ經テ上洛有ケルト云々