考古

旧石器時代と和田峠の黒耀(こくよう)石

今から約一万年以前の時代は、第四紀洪積世(だいよんきこうせきせい)という火山灰が堆積した赤土の時代で、歴史上、旧石器時代といっています。日本では昭和24年に、群馬県の岩宿(いわじゅく)遺跡が発見され、土器が作られる以前の歴史が明らかになりました。この旧石器時代は、約3万年以前を前期、約3万年前から1万年前を後期、次の縄文(じょうもん)時代への過渡期(かとき)を晩期としてわけています。長野県では昭和27年に、諏訪(すわ)市の茶臼山(ちゃうすやま)遺跡が発見されたのを最初に、今では約350か所の遺跡が知られるようになりました。

旧石器時代の人たちは骨角器(こっかくき)や打製石器(だせいせっき)を使って、主に狩猟(しゅりょう)生活をしていました。上水内(かみみのち)郡信濃町の野尻湖立(のじりこたて)が鼻(はな)遺跡からは、ナウマンゾウやオオツノシカなどのたくさんの動物化石とともに狩猟に使われた打製石器が発見されています。そのほかの遺跡でもさまざまな石器が発見されていて、人びとが長い間かけて新しい技術や道具を開発してきたことがわかります。その石器の変遷(へんせん)をみると、前期では敲打器(こうだき)という原始的な、打ちたたくだけの石器が作られました。次の後期になると石器をつくり出す術はいだんと進歩し、ナイフのように切るための刃器(じんき)が達しました。続いて槍(やり)のように突くための尖頭器(せんとうき)も現われました。晩期になると、細石器(さいせっき)という鋭(するど)い刃(は)をもつ小さな石片を組みあわせ、棒や骨角(こっかく)にはめて槍やモリとして使う高度な技術が発達しました。

こうして人びとは新しい文化をつくりだしてきたのですが、石器の材料には黒耀石(こくようせき)が好んで使われました。ガラスのように鋭く、加工しやすい性質をもっているためです。けれども、この石はどこにでもあるわけではなく中部地方では和田峠周辺が一大産地になっていて、遠くまで運ばれ、その範囲はおよそ240キロメートル四方におよんでいたようです。この和田峠周辺一帯には、黒耀石を採取する人びとが訪れてきて、遺跡をたくさん残しました。なかでも、和田峠の麓(ふもと)にある男女倉(おめぐら)遺跡(和田村)や大門(だいもん)峠の付近にある鷹山(たかやま)遺跡(長門町)は、出土した遺物が豊富で規模の大きい遺跡として知られています。そして、黒耀石の産出地をひかえているこの依田窪地方は、旧石器時代には黒耀石の交易路(こうえきろ)として、重要な意味をもっていたと想像されます。

  1. 和田峠全景
  2. 男女蔵遺跡群
  3. 鷹山遺跡群
  4. 彫刻器
    男女倉型彫刻器
  5. ナイフ形石器
    尖頭器
  6. そう器
    石刀
  7. 石核