考古
縄文(じょうもん)時代と深町(ふかまち)遺跡の呪術(じゅじゅつ)
旧石器時代も終わり頃になると、寒かった気候も少しずつ暖かくなり、沖積世(ちゅうせきせい)という腐○(ふしょく)した植物などが堆積(たいせき)した。それとともに、気候になじまなくなったナウマンゾウなどの動物は減少しはじめ、人びとも新しい環境に適応(てきおう)して生きるために、新しい道具の開発にせまられていまた。その結果、植物を煮(に)るための土器や、敏(びん)しょうになったシカ・イノシシなどの小動物を射(い)るための弓矢が発明されました。今までのくらしに一大変革が訪ずれたのです。新石器時代の始まりです。日本ではこの時代を縄文時代といい、約一万年間続き、土器やくらしの特徴(とくちょう)から、草創(そうそう)期・早期・前期・中期・後期・晩期の六つの時期にわけています。
草創期と早期は旧石器時代の終りから6千年前頃まで続きました。この頃はまだ少人数で移動し・尖底(せんてい)土器を使い・狩猟(しゅりょう)中心のくらしをしていました。南佐久(さく)郡北相木(きたあいき)村の栃原(とちはら)岩陰(いわかげ)遺跡に住んでいた北相木人はよく知られています。丸子町でも平井寺坂下遺跡から尖底土器片が見されています。次の前期と中期は今から4~5千年前にあたります。このころは栗・どんぐりなどの植物性食料も積極的にとり入れたため、くらしはかなり豊かになり、人口が増え・集落も大きくなりました。特に諏訪地方の八(やつ)ヶ岳(たけ)西南麓(ろく)では中期の集落がもっとも発達し、依田窪地方でも遺跡がふえています。土器は定住にふさわしく、装飾(そうしょく)にとむ平底の土器になりました。
しかし、3千年前の後期や晩期になると、気候が寒くなったため植物採取がうまくいかなくなり、サケ・マスなどの漁労(ぎょろう)に頼(たよ)るくらしに変わりました。そして、くらしが不安定なため、遺跡の数は少なくなり、呪術(じゅじゅつ)がさかんに行われました。また、土器は沈線文様(ちんせんもんよう)の精巧(せいこう)なものが作られました。丸子町では鳥羽山洞窟(とばやまどうくつ)で晩期中ごろの敷石住居(しきいしじゅうきょ発見され、淵(ふち)の上(うえ)遺跡では晩期末ごろの中空土偶(ちゅうくうどぐう)が発見されています。さらに、昭和54年には深町遺跡が発掘調査され、この時期の様子を知るうえで注目されました。この遺跡は、縄文中期や平安時代が重複していますが、晩期ではたくさんの土器や石器のほかに、呪術に使われた土製品や石製品、あるいは配石遺構(はいせきいこう)なども発見されており、日常生活だけでなく、縄文人の信仰やものの考え方などもうかがうことができます。