考古

奈良・平安時代と諏訪田(すわだ)遺跡の官衙(かんが)的遺構

645年の大化の改新によって成立した律令国家は、701年の大宝律令でいちだんと強化されることになりました。東山道の一国として信濃国(しなののくに)がおかれ、その下に10郡67郷が整えられたのもこの頃といわれます。政庁のある国府は、後に松本に移りますが、初めは上田の地におかれ、国府の近くには国分僧寺(こくぶそうじ)と尼寺(にじ)が建立されました。律令国家にとって信濃国は、東北地方の蝦夷(えぞ)を征服する前線基地のような立場にあったので、馬を飼育するための牧場経営などが重要視され、東山道は中央と結ぶ役割をはたしていました。

信濃の政治の中心となった小県郡には、童女(おうな)・山家(やまが)・須波(すわ)・跡部(あとべ)・安宗(あそ)・福田・海部(あまんべ)の7つの郷がおかれました。このうち、海部郷は依田川の下流地域にあったとされています。事実、古墳(こふん)時代以後の依田窪(よだくぼ)地方の遺跡(いせき)は、依田川の下流地域を中心に発達しており、このあたりに古代の郷というような単位のまとまりがあったことは十分推測されることです。

依田川の下流地域にあるこのころの遺跡の一つ諏訪田遺跡は、昭和55年に発掘(はっくつ)調査され、奈良時代の、掘立柱をもつ建物跡やたくさんの布目瓦(ぬのめがわら)が発見されました。掘立柱の建物跡は一般的な竪穴住居(たてあなじゅうきょ)と異なり、規模が大きく、明らかに集落の中心をなす建物であったといえます。それに加えて、当時は寺院などの特別な建物にしか使われなかった布目瓦が発見されていることなどから、諏訪田遺跡は「海部郷」の官衙(役所)跡(あと)ではないかとも考えられています。

周辺の深町・中城南遺跡で竪穴住居の集落群跡が発見されており、また、山麓(さんろく)にはこの地域の日常容器類の生産を行った須恵器(すえき)の古窯跡群(こようせきぐん)が、確認されています。そして対岸の塩川(しおがわ)とならんで依田条里遺構(じょうりいこう)の水田もみられ、このあたりが奈良・平安時代に栄えていたことがうかがわれます。

集荷

  1. 信濃国分寺跡
  2. 諏訪田遺跡木柱列
  3. 丸瓦(諏訪田遺跡)
    軒丸瓦(深町遺跡)
    軒丸瓦(大狭間遺跡)
  4. 軒平瓦(諏訪田遺跡)
    土錘(深町遺跡)
  5. 女瓦(諏訪田遺跡)
  6. 壺(灰釉陶器、諏訪田遺跡)
    埦(深町遺跡)
  7. 碗(灰釉陶器、諏訪田遺跡)
    碗(灰釉陶器、深町遺跡)
  8. 耳皿(土師器、諏訪田遺跡)
    耳皿(灰釉陶器、諏訪田遺跡)
    碗(灰釉陶器、諏訪田遺跡)
  9. 坏蓋(須恵器、諏訪田遺跡)
    坏蓋(須恵器、諏訪田遺跡)
    円面硯(須恵器、諏訪田遺跡)
  10. 盤(須恵器、諏訪田遺跡)
    坏(須恵器、諏訪田遺跡)