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人工癌実験の成功(4/6) 〜研究と実績〜

発癌実験の成功後、山極先生はコールタールの中のどの物質が発癌に有効なのかを決める実験には進まなかった。これはイギリスの学者によって発展させられることになる。

山極先生は癌の免疫学的治療実験に進んだ。先生はマウスの「移植腫瘍」を利用した。これは、マウスの個体に次から次へと植え継ぎのできる便利な腫瘍で、二十世紀に入るころから、癌研究に用いられるようになっていた。先生は、これをウサギに注射すれば、そのウサギの血清、あるいは臓器のなかに、この移植腫瘍を抑える力のある抗体ができるだろうと考えたのである。先生は亡くなるまで、大きな期待をかけながらこの研究を続けた。

しかし、先生の研究や世界のあちこちで行われた癌の免疫学的治療の試みは、すべて学問的に無意味であることが次第にわかってくる。この問題は、当時の知識と技術では研究できない性質のものだった。この種の実験が学問的に承認されるのは、昭和28年からのことである。そのきっかけとなった実験には化学物質で作られた癌が使用された。山極先生の発癌実験はこのような例にも生かされているのである。

癌研究に関連して次のことに触れておく必要があろう。
一つは、明治40年に専門雑誌『癌 Gann 』を創刊したことである。これは山極先生が独力で始めたものだが、『胃癌発生論』を出版した半田屋医籍商店の店主山口徳次郎の援助があった。創刊号はおよそ200部発行された。この雑誌はのちに日本癌学会の機関誌になる。

もう一つは明治41年に癌研究会(日本癌学会とは別)の創立に関係したことである。発会式は山極先生の教室で行われた。会頭には青山胤通教授がなり、山極先生は理事になった。この癌研究会が研究所と病院を設立するのは昭和9年5月、山極先生が亡くなられたあとのことである。このとき国家からの援助は全くなかった。すべてが寄付によってまかなわれた。当時、わが国の公衆衛生上の対策は伝染病に重点が置かれ、癌は重要視されていなかった。わが国が癌対策に力を注ぐようになるのは昭和32年ころからである。

写真 大正時代の病理学教室の建物
勝三郎が在職していた当時の病理学教室は、現在の医学図書館の場所にあった。関東大震災で大規模な被害を受け、昭和12年(1937)に赤門正面に医学部本館(現2号館本館)が建設され、病理学教室は昭和13年(1938)に移った。
〔東京大学医学部人体病理学・病理診断学分野所蔵〕

写真 写真 兎耳人工癌実験に関する自筆のノート

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