清次郎(赤松小三郎)は、幼い頃から和算(数学)が好きで、清次郎の叔父にあたる上田藩士 植村重遠から和算を学びました。
清次郎は、他の子供たちと遊ぼうとせず武士の子なのに和算ばかりやっているので、周りの人たちは「清次郎は、算盤片手に商人になるのか」と笑っていたと伝えられています。
清次郎は和算だけではなく、上田藩校の『鐘美館』で漢文の書物を読んで学んだり、武術の修行を行い武士のたしなみも怠りませんでした。
小三郎筆の和算帳面の一部です。「長立円」の中に三角錐を入れる場合、その最大の三角錐の体積や面の大きさについて、その解法および答を4ページにわたって記しています。このような帳面のほか、現在も残る小三郎の和算の計算書の類は数百枚にものぼります。
嘉永元年(1848)、清次郎(赤松小三郎)が数え年18歳のとき、上田藩士の森田斐雄ほかと共に江戸へ出て数年間勉学に励みました。嘉永5年~7年の頃は、幕臣で和算の大家である内田弥太郎の塾(マテマテカ塾)に入りました。ここで清次郎は、和算のほかに測量・天文・暦学・地理・蘭学など和洋の学問を幅広く学びました。
内田弥太郎の著書を、清次郎が書き写した本が何点か現在も残っています。
書き写した書物の末尾に筆写年月(日)と、筆写場所が記されているものが多くあります。
署名は「芦田惟敬」と書かれており、「惟敬」とは清次郎の諱(実名)です。これは、内田弥太郎の実名「思敬」にあやかり名づけたといわれています。
なお、清次郎の初めの諱は「友裕」であったらしく、「惟敬」と替えていることから、師である内田弥太郎への清次郎の敬服ぶりがうかがい知ることができます。
残されている清次郎の写本類は和算だけではないことから、様々な学問についても広く学び研鑽を積んでいた様子をうかがうことができます。
嘉永5年(1852)小三郎筆写。「宇宙堂主人」内田弥太郎が天保5年(1834)に著したものを書写しました。地軸のブレにより移動してしまう北極星を念頭におき、織女星等他の主な恒星の位置から、日本各地の緯度を測量する方法を記したものです。江戸のマテマテカ塾の位置は「北極高(北緯)三十五度四十分」などと書かれています。
末尾に「嘉永五壬子年十一月廿五日於江都大久保写之、芦田惟敬」と書かれています。
嘉永5年(1852)、清次郎は内田弥太郎の紹介で内田の友人である下曽根金三郎の門へ入り、蘭学・砲術などを学びました。
嘉永6年(1853)秋、江戸での遊学を終えた清次郎は、上田へ帰郷しました。
安政元年(1854)、清次郎は上田藩士である赤松弘の養子に入り、芦田清次郎から赤松清次郎になりました。
上田藩に戻った清次郎は、数学助教兼操練世話役になり藩の兵制改新の任務に就きましたが、まもなくして再び江戸へ学びに出ました。
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