元治元年(1864)8月、上田藩は長州征伐(征長)に出動を命じられ、小三郎は準備のため、9月に江戸へ出発しました。
江戸滞在中、小三郎は横浜で英国公使館のアプリンと知り合いになりました。以後江戸と横浜を往復しながら、アプリン等から英語・英国式の兵学・馬について熱心に学びました。
慶応元年(1865)正月、長州征伐は中止になり、小三郎は江戸から上田へ帰りますが、すぐに江戸へ戻りました。
同年2月22日、再び下曽根塾に入門し、4月に初めて英書の翻訳をしました。
5月からは『英国歩兵練法』の翻訳を始めました。『英国歩兵練法』は、小三郎と金沢藩士 浅津富之助とが分担して翻訳にあたりました。
『英国歩兵練法』は、小三郎の師匠でもあった下曽根金三郎が購入した原書で、序文は第1編が下曽根の撰文、高島秋帆書で、第2編は堀直虎(須坂藩主)が記しています。
同年5月、ふたたび幕府より長州征伐(長州再征)の命が下り、小三郎は長州再征に従い、江戸から大阪・京都を往復する間も翻訳を続け、翻訳原稿を飛脚便で江戸に送りました。翻訳の済んだものから順次印刷され、慶応2年3月にまとめて刊行(製本所は江戸日本橋山城屋)されたようです。
『英国歩兵練法』の刊行により、赤松小三郎の名は世に知られることとなりました。
『英国歩兵練法』各編の内容と翻訳時期、訳者は次のとおりです。
上田市立博物館で所蔵する『英国歩兵練法』は赤松家に伝わった小三郎自身の蔵書で、その後翻訳する重訂版出版のための訂正の朱書や、講義用の覚えと思われるメモが残っています。
慶応元年12月、小三郎は一度上田へ帰省しますが、慶応2年(1866)2月には京都に向かい家塾を開きました。家塾は二条衣棚にあったとも四条河原町にあったともいわれていますが、はっきりとした場所は不明です。家塾では、英国式兵学や物理学、航海術を、課外として議会政治などを教えました。
各地の藩士が小三郎に学びたいと集まるようになりました。
各藩が小三郎を招き指導を受けたいと声を掛ける中、薩摩藩は特に敬意を表して小三郎に懇願したので、薩摩藩の指導を引き受けることにしました。
慶応3年(1867)5月、薩摩藩の国父といわれた島津久光の要請に応じて、「英国歩兵練法」1864年改訂版の原書を翻訳、加筆した「重訂英国歩兵練法」(薩摩版)を刊行しました。
重訂英国歩兵練法は全7編9冊からなり、表紙の色から「赤本」と呼ばれました。
最終巻の第7編の奥付には「薩摩軍局」という朱印が押されており、薩摩藩の管理がきびしかったことがうかがえます。
この翻訳のお礼として小三郎は島津久光から、当時世界最高級という「新製16響ヘンリー騎兵銃」を拝領しました。
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