赤松小三郎赤松小三郎

赤松小三郎ヒストリー 赤松小三郎没後 History of Kosaburou Akamatsu

赤松小三郎没後

 赤松小三郎と妻たかとの間には子供がなく、小三郎が暗殺されたことで上田藩の規則により、赤松家は断絶になりました。
 小三郎の死及び遺族の処置について、上田藩御徒士目付日記に記載されています。
 慶応三年九月二十三日の條々
 赤松小三郎京都五條通り下ル三丁目於和泉町何方之者哉不相分帯刀致候者に被討果云々
 同十二月二十二日の條々
 小三郎養母儀佐久郡崎田村郷士里見忠右衛門方へ、同人妻儀松代御家中白川久之允か方へ、夫々當分の内差遣し置候旨芦田柔太郎より届出

明治39年5月21日信濃毎日新聞 明治39年5月21日信濃毎日新聞 出典:信濃毎日新聞

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 明治39年5月10日上田の飯島七郎兵衛は知己の伊東祐亨元師海軍大将を上田に招きました。伊東は東郷平八郎海軍大将と上村彦之丞海軍中将の二人を伴って上田を訪れました。
 伊東、東郷、上村の三将軍は上野駅から列車で上田駅に到着し、上田町民に歓迎される中、飯嶋七郎兵衛宅へ入りました。三将軍の歓迎晩餐会が催された折、上村中将と東郷大将が赤松小三郎の塾で学んでいたことが分かり、地元の新聞でも大きく取り上げ、上田町民は驚きました。
 明治39年5月11日、三将軍は朝7時頃出発。信濃国分寺で松の記念植樹を行い、伊東元帥が「鎮国道場」と「国光輝異域」を筆で書き、東郷大将は「武徳震遐方」を筆で書き残しました。
のちに「鎮国道場」は額に納めて信濃国分寺に飾られ、「国光輝異域」「武徳震遐方」は五反幟で信濃国分寺のお祭り「八日堂縁日」に境内入り口で掲げられます。

信濃国分寺にて
鎮国道場

 三将軍一行は、大屋の橋を渡り、依田川のつけば漁を見学して、川魚を賞味しました。帰りに羽織袴の船頭が漕ぐ小舟に乗り千曲川を渡りました。その際、伊東元帥が「この舟は三将軍を乗せたのだから大きな軍艦よりも偉いのじゃ」と言ったことが当時の新聞に掲載されました。

三将軍が乗った舟

 午前11時、三将軍一行は、上田城跡公園で記念植樹・記念撮影、常田獅子の観覧の後、明倫堂の大宴会に出席しました。
午後3時、明倫堂を後にして、上田男子尋常小学校・上田中学校と回り、午後9時に飯嶋邸へ戻り宿泊しました。

上田城本丸にて 出典:赤松小三郎顕彰会

 明治39年5月12日、赤松小三郎の家系の芦田諧氏等数名が三将軍に接見しました。東郷大将・上村中将はとても喜び当時のさまざまお話をされて、弔祭料を贈られました。
 午前9時から小県蚕業学校、上田中学校、上田高等女学校で記念植樹を行い、午餐として上田橋畔のつけばで鮠(ハヤ)料理を味わいました。
その後、三将軍は上田駅から列車で篠ノ井へ向かいました。

「贈従五位」の位記 出典:上田市立博物館

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大正13年(1924)2月11日、国への貢献に対する功績を称え、「故赤松小三郎」に「特旨を以て」従五位が贈られました。小三郎も死後57年たって、ようやく明治維新の「殉難志士」の列に加えられました。

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