文久3年(1863)、赤松小三郎は世の中の情勢や上田藩の現状に堪えられず、藩の重役に藩政改革意見書を提出しました。
上田藩の家臣の無気力で怠惰なところや情勢への無関心、藩の財政逼迫と富国強兵への欠如を改め、藩全体で倹約する。学問の向上はもとより世の中の情勢を正しく察するために藩士から忠義と英才のある人材選び、京都や江戸などに派遣し情報を集め、軍事・経済を研究し、諸藩に先駆けて藩政改革を断行することなどを説きました。
慶応2年8月、小三郎は今の情勢を踏まえ国の行く末を見かねて「口上書」を幕府に提出しました。
幕府軍の長州藩再征討には勝算がないことは明らかであることや、非常の時局には破格の改正は当然だとし、家柄や階級にとらわれず広く有能な人材を登用し、海陸兵制の改革を行い、無駄な費用を節約し富国強兵につとめることが急務であることなどを説きました。
この「口上書」は幕府に提出したものの下書と思われ、一部に朱書の訂正箇所がみられます。
慶応2年9月、世の中の情勢や幕府の様子を踏まえ上田藩主松平忠礼自身がとるべき姿勢についてまとめた意見を上申しました。
人材を選ぶときは家柄・身分・禄高にこだわらず、人々の学問や知恵で藩主自らが選び、役職に当てることや、兵事についても、家臣任せではなく藩主が直接指揮をとり、自ら西洋兵制や戦法を学び、軍備の制度改革に当たらねばならないとしています。
小三郎のような下位の一家臣から主君に直接宛てた上申自体が、通常ではあり得ない上に、大変強い調子の意見書であり、激変する時勢に対応できない藩当局へのいらだちから、重役・上司を飛び越しての直接の意見具申となったものと考えられ、小三郎の自負と意気込みのほどが感じられる文面です。
前越前福井藩主の松平春嶽は、前幕府政事総裁で幕政の中枢にいて、薩摩藩の島津久光などとも親交があり他の列藩からも敬重されていました。
松平松平春嶽に小三郎が時事意見書を提出した慶応3年5月には「四候会議」が京都で設置されました。四候会議は松平春嶽(前越前藩主)、島津久光(薩摩藩主の父)、山内豊信(前土佐藩主)、伊達宗城(前宇和島藩主)による合議体性で、朝廷や幕府の機関に準ずるものとして扱われました。
赤松小三郎は四候会議の開催に合わせて、松平春嶽と島津久光の二人と徳川幕府にほぼ同じ内容の7項目からなる国政改革の建白(建白七策)をしています。
松平春嶽にあてた建白書の原本は伝わっていませんが、「上田藩赤松小三郎ノ時事意見書」として春嶽の政治活動記録書『續再夢紀事』に全文が収録されています。
赤松小三郎は5月17日に松平春嶽に提出した国政改革の建白書とほぼおなじ内容の建言書を島津久光にも提出しました。久光に宛てた建白書は春嶽に宛てたものにない文言が加筆されていることから、小三郎は春嶽に提出した後に久光に提出されたものと考えられます。
小三郎自筆の久光宛の建白書は「松平伊賀守内赤松小三郎建言 天幕合体諸藩一和ノ国是ニ就テ」として、島津玉里家に伝わっています。
盛岡藩京都藩邸が、赤松小三郎が幕府に提出したと考えられる建白書、もしくはその写しを転記したものです。これによると、小三郎が慶応3年5月に幕府に建白したものを、盛岡藩はその半年後の11月に入手したとみられます。
この写しは、盛岡藩京都藩邸が集めたと推定され、盛岡藩「慶応丁卯(ていぼう)雑記」に収録され、もりおか歴史文化館が盛岡藩幕末収集文書として収蔵しています。ここに掲載した翻刻と注釈は、盛岡市在住の大信田尚一郎氏によるものです。
(大信田氏による報告書PDFダウンロード(5.18MB))
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