安政元年(1854)清次郎(赤松小三郎)は、再び上田から江戸に出ました。
今までの清次郎の学びの姿勢を、内田弥太郎・下曽根金三郎からも認められ、両師の推薦で勝海舟の門へ入ることになりました。
安政2年(1855)、幕府は長崎にオランダ士官等を教官とした海軍伝習所を開設し、海軍軍事技術のほか諸科学の教育を行いました。
勝海舟の門下生となった清次郎は、伝習所の一期生となる勝海舟に随行して幕府の軍艦「昌平丸」に乗り込み江戸から長崎にある海軍伝習所へ向いました。
清次郎はこの長崎遊学にあわせて、上田藩から二人扶持(一人扶持は1日米5合の割合)が支給されています。
安政2年8月30日品川を出航し、10月20日長崎に到着と長い航行でした。
このとき、清次郎は「美美婦久呂」という長崎航路日記を書き残しました。
「廿日雨少小風、長崎に入り番所外に碇、爰に蘭船十六七間一艘、十三四間一艘碇す、四ツ半頃引船にて入湊、九ツ頃上陸、西役所東長屋に住居、」
清次郎は長崎留学中の安政4年7月に、オランダ語原書(1855年版)を「新銃射放論」として翻訳しました。「射放」とは射撃のことを表しています。
長崎海軍伝習所では、測量や航海術、医学やオランダ語を学びました。
安政4年に咸臨丸(かんりんまる)に乗船して対馬へ航海実習に加わり、安政5年には観光丸(スンピン号)で勝海舟とともに薩摩へ赴いたりしました。
長崎海軍伝習所は3年あまりで廃止になり、安政6年正月、勝海舟一行とともに清次郎も江戸へ帰港しました。
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